修行の四階段の三・随分覚について、本論の『起信論』は次のように述べられる。
「法身菩薩等の如きは、念住を覺って念に住相無し。以て分別なる粗念の相を離る。故に随分覺と名づく。」である。
『義記』における第三位の随分覚は次のようになる。
能観の人は「法身菩薩」である。法身菩薩というのは法身は一切の法に遍満している義、あるいは一切の法は法身に離れていない義を証入した菩薩であり、初地菩薩から九地までの菩薩は同じ法身を證入し、全部法身菩薩というのである。
所観の相は「念の住を覚して、念に住相なし」である。ここの「念の住」というのは四種類の住相を指し、つまり転相・現相・智相・相続相の四つである。転相とは即ち能見相であり、不覚の故に、心が動ずて無明業相となり、無明業相によって、転じて能見を成立させるのである。言い換えば、妄識(虚妄分別)によって、対象(相)を認識する働きである。能見相など、後に「相」が付けているけど、これは識の働きの範囲であり、具体的な物の姿という相ではないである。現相とは即ち境界相・現識のことであり、転相(能見相)によって、境界を顕現すること、鏡が様々な物を映しているような状態であり、「色・声・香・味・触・法の六境に区別する前の見られる物を指す。」(義記P.123)である。この辺はだんだん細かくになって、限界は一目瞭然ではないことが多いである。智相とは現れた境界相によって、妄心が起こり、区別することになるのである。即ち所現の相によって、染法と浄法を区別し、選択することである。相続相とは即ち前の智相が境界相によって、苦と楽、染と浄を区別し、選ぶ心は相互に相応し、結合しつつ、そういう状態が止まらないのである。要約すると、「念の住を覚して、念に住相なし」とは、以上の転相・現相・智相・相続相の四種類の義が表している迷いの心の在り方を明らかにしたので、結局これらの四種類の虚妄なる住相は実有しないと認識するのである。一般の人としては、妄念に従うしかない、こういう細かい心の働きには自覚できないのである。
観の利益は「分別なる麁念の相を離すを以て』である。即ち、以上のような四種類の住相を覚し、住相が無くなって、得られる利益は粗い妄念(煩悩の因)がなくなる。言い換えば、煩悩がほとんどなくなり、特に大きい煩悩のない状態である。ただ、粗の煩悩から解脱したが、もっと微細の生相なる細念・細煩悩は未だあるのである。
観の文斉は「随分覚」であり、修行の四階段の第三位に属するである。この随分覚の階段が解決したのは前の転相(能見相)・現相(境界相)・智相・相続相の四種類の住相であり、初地は相続相を、七地は智相を、八地は現相(境界相)を、九地は転相(能見相)を覚すことである。
参考文献
『大乗起信論義記』