義記における修行の四階段 二

 まずは先週の発表の補足する必要がある。このテーマは起信論の修行の四階段について、『義記』と『釈論』にとって、どういうように解釈するのかを中心とするが、繋がる概念が多くなっている。この四階段の相違を明らかにするため、生、住、異、滅の四相、三細六粗等も必要となり、釈論はこれらの概念を四階段に入る前に解釈するであるので、この補足を次にするつもりである。

 四階段の二、相似覚について、本論の『起信論』は次のように述べられる。

 「二乗の観智と初發意の菩薩等との如きは、念異を覺って、念に異相無し。以て粗分別なる執着の相を捨す。故に相似覺と名づく」である。

 『義記』において、第二位の相似覚は次のようになる。

 能観の人は初発意の菩薩である。「初発意菩薩」とは初めて菩提心を起こした菩薩であり、十住位の初位の菩薩である。「二乗の観智」とは声聞縁覚の二乗は「観(人空観・我空観」の修行によって、人空の智慧を得るのである。この階段の初発意菩薩は未だ惑を留って、正しく人空を証入することではないと雖も、初発意菩薩の修行に至る境地は二乗の声聞縁覚と同じ「人空」とするのである。けれども、大乗菩薩の発心は声聞縁覚と同じではない、声聞縁覚の場合は修行の目的(果)は人空までと言われ、大乗菩薩には未だこれから、もっと極める清浄の大乗の智慧に入る門とするのである。

 所観の相は「念の異を覚す」である。直接的には、起こった妄念の異相を覚知するとなる。異相は六粗(六相もいう)に属する執取相と計名字相という二種がある。執取相とは妄念が相続して来て、人はこれらの妄念を取って執著しつつ、無意義な妄念から離れられない状態である。計名字相とは前の執取相によって、執着することの上にさらに名字を立てて、実体ではなく、名字のみより分別することである。概念的な分別することであり、文章・文字を読む時には、正にそういう計名字相のことであるでしょう。即ち、「念の異を覚す」を簡単にすれば、前の執取相と計名字相を表す妄念の状態に落ちた、止まらない妄念を本当の自分とすることに気がついたである。

 觀の利益は「念に異相無し」である。即ち、修行の禅定力によって、上に述べた執取相と計名字相のような妄念の状態に気がつけば、これらの虚妄の妄念から離れ、夢のような状態から目覚めたとなることにする。

 觀の文斉は「相似覚」である。この階段は修行の四階段の第二位であり、相似覚というのであるが、名字のとおりに、大乗の悟りに似ている。我空の境地を得たけど、未だ法空ではなく、小乗仏教の境地に当たり、本当の大乗の悟りではないからのである。

参考文献

『釈摩訶衍論の新研究』早川先生 P.759-773

『現代語訳大乗起信論義記』島村大心 P.88-97

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