釈論は一本覚と多本覚・一無明と多無明について、自宗決定と引摂決定を設定される。
自宗決定とは釈論自己の主張で、一切衆生は一の本覚あるいは一の無明を共有し、同一相続にしている。故に一修行者がその一つの無明を離れて本覚を証入する時に、他の修行しない一切衆生も一修行者と共有している無明の相続心相から出て、同時にその一つの本覚を証入することを得るだろうということである。
引摂決定とは、本論の起信論の立場とし、各々の衆生がそれぞれの同質の本覚あるいは無明を具え、いわゆる「多無明」あるいは「多本覚」である。故に一行者が自分の無明を破して本覚に至る時に、ただ自己のみそれを得、他の衆生はまだ自体相薫の独力業の中にいて、各自の無明の相続心相によって続くということである。
表面的には、この自宗決定と引摂決定の二義は天と地の差別があるが、釈論はこの二義は相違過がないと言われる。その理由とは、自宗決定は「独一無二体」の本覚、清浄の本体の立場からの見方であり、引摂決定は各自の無明の薫習を受けている衆生の私たちの立場である。(参照原文「本覚亦如是、独一無二体。遍於諸衆生、種種心相中…無明亦如是、唯一体無二。遍到諸衆生、能作薫習事。」)ここにおかしいのは、引摂決定の中で、他の衆生は各自の無明の薫習を受けていると述べたのに、自宗決定になると「各自の無明」は何故急になくなるのか。答えは覚者にとって、無明即菩提である。「各自の無明」の本質は本覚真如の働き(染浄薫習)が平等に、全ての衆生に遍く渡ること(遍到)による結果である。衆生にとって、この平等の働きより自己意識(初相)が生じ、そして区別・選択を積み上げて、遂に一面的な意識によって無明となる。無明ということは実際にないである。
前に述べた「同一の対象を望見する二つの立場」の考え方からみると、同ーの対象は本覚であり、自宗決定と引摂決定の二義は即ち二つの立場からの所見である。この二義はいわゆる「非一非異」の真如本覚・阿頼耶識の義を表している。「非一」は衆生の立場、各自の無明の相続心相に落ちて、全体の真相が見えない。「非異」は無念を得て本覚智を証入し、全ての存在の頂点に至って、全ての存在は一心の統一られてとの真実の立場である。言い換えば、一切の存在は一の本覚・真如の働きの顕現である。
では、何故わざとこの二義を設定するのか、一は引摂決定によって自分の精進修行の必要を顕示す。二は「決疑門」の中身として、一無明と多無明の関係等から可能な疑問を先に解明するためであると思う。
参考文献
P.387、P.495『釈摩訶衍論の新研究』早川先生