修行の四階段ーー大乗起信論義記原文

  下文云。本覚随染生智浄相者。即此始覚也。此中大意明本覚成不覚。不覚成始覚。始覚同本覚。同本覚故則無不覚。無不覚故則無始覚。無始覚故則無本覚。無本覚故平等平等離言絶慮。是故仏果円融蕭焉無寄。尚無始本之殊。何有三身之異。但随物現。現故説報化之用。下文更顕之耳。Kgiki02-16R
  (下の文に「本覚随染して智浄相を生ず〈復次本覚随染分別。生二種相。・・・一者智浄相〉」とは、即ちこの始覚なり。この中、大意は、本覚は不覚と成り、不覚は始覚と成り、始覚は本覚に同じ、本覚に同ずるが故に則ち不覚なし。不覚なきが故に則ち始覚なし。始覚なきが故に則ち本覚なし。本覚なきが故に平等平等にして離言絶慮なることを明かす。この故に仏果円融して蕭焉として寄ることなし。なお始本の殊なし。何ぞ三身の異あるや。ただ物に随いて現ず。現ずるが故に報化の用を説く。下の文に更にこれを顕すのみ。)Kgiki02-16R

 ○第二広顕二覚中二。先明始覚。後明本覚。前中有三。初総標因果二覚。次広寄四相釈成。後而実無有下明始不異本。Kgiki02-16R,16L
  (○第二に広く二覚を顕す中に二。先に始覚を明かし、後に本覚を明かす。前の中に三あり。初に因果二覚を標し、次に広く四相に寄せて釈成し、後に「而実無有」の下は始は本に異ならざることを明かす。)Kgiki02-16R,16L

【論】又以覚心源故名究竟覚。不覚心源故非究竟覚。Kgiki02-16L
【論】 (また心源を覚するを以ての故に究竟覚と名づく。心源を覚さざるが故に究竟覚にあらず。)Kgiki02-16L

 前中言覚心源者。染心之源。謂性浄也。又麁相之源。謂生相也。始覚道円同於本覚。故云究竟。此在仏地。不了其源。始未同本。故云非究竟。此在金剛已還。Kgiki02-16L
  (前の中に「心源を覚す〈覚心源〉」というは、染心の源は、謂く性浄なり。また麁相の源は、謂く生相なり。始覚道円にして本覚に同ず。故に「究竟」という。これは仏地に在り。その源を了せざれば、始は未だ本に同ぜず。故に「非究竟」という。此これは金剛已還に在り。)Kgiki02-16L

 ○第二約四相別顕中。初三相釈前不究竟覚。後一相釈上究竟覚。於中有二。初正寄四相顕其四位。後引経釈成心源無念。Kgiki02-16L
  (○第二に四相に約して別して顕す中に、初の三相は前の不究竟覚を釈し、後の一相は上の究竟覚を釈す。中に於いて二あり。初に正しく四相に寄せてその四位を顕し、後に経を引きて心源無念を釈成す。)Kgiki02-16L

 前中四相義者。先述大意。後方釈文。述意者。此中文意将四相麁細配以寄顕反流四位。以明始覚分斉。然此四相約真心随熏麁細差別寄説為四。非約一刹那心明四相也。所以知者。若約一刹那心弁者。如下文中明地上菩薩業識之心微細起滅。於中異滅相等豈凡小能知。又如事識之中麁相生住。地上菩薩豈不能知。是故十地已還具有微細四相。於中滅相豈信地能知。Kgiki02-16L,17R
  (前の中に四相の義とは、先に大意を述べ、後に方に文を釈す。述意とは、この中の文意は四相の麁細を将いて配して以て反流の四位を寄せ顕して、以て始覚の分斉を明かす。然るにこの四相は真心の、熏に随いて麁細の差別あるに約して、寄説して四となす。一刹那の心に約して四相を明かすにあらざるなり。知る所以は、もし一刹那の心に約して弁ぜば、下の文の中に地上の菩薩の業識の心の微細の起滅を明かすが如し。中に於いて異滅の相等とは、あに凡小は能く知らんや。また事識の中の麁相生住の如き、地上菩薩はあに知ること能わざらんや。この故に十地已還は具に微細の四相あり。中に於いて滅相は、あに信地の、能く知らんや。)Kgiki02-16L,17R

 故知文意梢異。今以二門略弁。一総明。二別説。総者。原夫心性離念。無生無滅。而有無明迷自心体。違寂静性鼓動起念。有生滅四相。是故由無明風力。能令心体生住異滅従細至麁。Kgiki02-17R
  (故に知りぬ。文意やや異なり。今、二門を以て略して弁ず。一に総じて明し、二に別して説く。総とは、原〈きわ〉むるにそれ心性は念を離れて、生なく滅なし。而して無明ありて自の心体に迷いて、寂静の性に違し、鼓動して念を起こし、生滅の四相あり。この故に無明の風力に由りて、能く心体をして生住異滅して細より麁に至らしむ。)Kgiki02-17R

 経云。仏性随流成種種味等。又経云。即此法身為諸煩悩之所漂動往来生死名為衆生。此論下云。自性清浄心因無明風動等。今就此義以明四相。既鼓静令動。遂有微著不同先後際異。就彼先際最微名為生相。乃至後際最麁名為滅相。故仏性論云。一切有為法約前際与生相相応。約後際与滅相相応。約中際与住異相相応。Kgiki02-17R
  (『経』に云わく「仏性随流して種種の味と成る」等。また『経〈不増不減経〉』に云わく「即ちこの法身は諸の煩悩のために漂動せられて生死に往来するを名づけて衆生となす。」この『論』の下に云わく「自性清浄心、無明の風に因りて動ず」等。今、この義に就きて以て四相を明かす。既に静を鼓し動ぜしむるに、遂に微著の不同、先後際の異あり。彼の先際の最微に就きて名づけて生相となす。乃至、後際の最麁なるを名づけて滅相となす。故に『仏性論』に云わく「一切有為の法は前際に約して生相と相応し、後際に約して滅相と相応し、中際に約して住異相と相応す。」)Kgiki02-17R

 二別明者。対彼下文約位別分。生相有一。住相有四。異相有二。滅相還一。生相一者。名為業相。謂由無明不覚心動。雖有起滅。而相見未分。以無明力故。転彼浄心至此最微。名為生相。甚深微細唯仏所知。下文云。依無明所起識者。乃至唯仏能知故。即下文三細中初一。及六染中後一。五意中第一。此等並同此生相摂。Kgiki02-17R,17L
  (二に別して明かすとは、彼の下の文に対して位に約して別して分かつ。生相に一あり。住相に四あり。異相に二あり。滅相は還〈また〉一なり。生相の一とは、名づけて業相となす。謂く。無明不覚の心動ずるに由りて起滅ありといえども、相見は未だ分かたず。無明の力を以ての故に、彼の浄心を転じて、ここに至りて最微なるを名づけて生相となす。甚深微細にして唯仏の知る所なり。下の文に云わく「無明に依りて起こす所の識とは、(乃至)唯仏のみ能く知るが故に〈依無明薫習所起識者・・・唯仏窮了〉」。即ち下の文の三細の中の初の一、及び六染の中の後の一、五意の中の第一、これ等並びに同じくこの生相の摂なり。)Kgiki02-17R,17L

 住相四者。一名転相。謂由無明力。不覚前動相即無動故。転成能見。二名現相。謂由無明依前能見不了無相。遂令境界妄現。此二及初並在頼耶位中。属不相応心。三名智相。謂由無明迷前自心所現之境。妄起分別染浄之相。故云智也。四名相続相。謂由無明不了前所分別空無所有。更復起念相応不断。此二同在分別事識細分之位。属相応心。無明与前生相和合。転彼浄心乃至此位行相猶細。法執堅住。名為住相。下文三細中後二。及六麁中初二。并五意中後四。及六染中中四。此等並同是此住相。Kgiki02-17L,18R
  (住相の四とは、一に転相と名づく。謂く。無明の力に由りて前の動相は即ち無動と覚さざるが故に転じて能見を成ず。二に現相と名づく。謂く。無明は前の能見に依りて無相と了せざるに由りて、遂に境界をして妄に現ぜしむ。この二と及び初は並びに頼耶の位の中に在りて、不相応心に属す。三に智相と名づく。謂く。無明は前の自心所現の境に迷うに由りて、妄に染浄を分別する相を起こすが故に智というなり。四に相続相と名づく。謂く。無明は前の分別する所は空にして所有なしと了せざるに由りて、更にまた念を起こし相応して断ぜず。この二は同じく分別事識の細分の位に在りて相応心に属す。無明と前の生相と和合して、彼の浄心を転じ、乃至、この位に行相なお細なり。法執堅住すれば、名づけて住相となす。下の文の三細の中の後の二、及び六麁の中の初の二、并びに五意の中の後の四、及び六染の中の中の四、これ等並びに同じくこれはこの住相なり。)Kgiki02-17L,18R

 言異相二者。一執取相。二計名字相。謂此無明迷前染浄違順之法。更起貪瞋人我見愛。執相計名取著転深。此在事識麁分之位。無明与前住相和合。転彼浄心令至此位。行相梢麁散動身口。令其造業。名為異相。
  (異相の二というは、一に執取相、二に計名字相。謂く。この無明、前の染浄違順の法に迷い、更に貪瞋人我の見愛を起こして、相を執し名を計し取著転た深し。これ事識麁分の位に在り。無明と前の住相と和合して、彼の浄心を転じて、この位に至らしむ。行相やや麁にして身口を散動して、それをして業を造くらしむを名づけて異相となす。下の文の六麁の中の中の二、及び六染の中の初の一、并びに五意の後の意識、これ等並びに同じくこれはこの異相なり。)Kgiki02-18R

 言滅相一者。名起業相。謂此無明不了善悪二業定招苦楽二報。故広対諸縁造集諸業。依業受果。滅前異心令堕諸趣。以無明力転彼浄心。至此後際。行相最麁。極至此為極。周尽之終。名為滅相。下文六麁中第五相是也。以果報非可断故。不論第六相也。Kgiki02-18R
  (滅相の一というは起業相と名づく。謂く。この無明、善悪の二業は定んで苦楽の二報を招くことを了せざるが故に広く諸縁に対して諸業を造集す。業に依りて果を受け、前の異心を滅して諸趣に堕せしむ。無明の力は彼の浄心を転ずるを以て、この後際に至る。行相最も麁なり。極めてここに至るを極となす。周尽の終。名づけて滅相となす。下の文の六麁の中の第五相これなり。果報は断ずべきにあらざるを以ての故に、第六の相を論ぜざるなり。)Kgiki02-18R

  是故三界四相唯一夢心。皆因根本無明之力。故経云。無明住地其力最大。此論下云。当知無明能生一切染法。此之謂也。雖復従微至著弁四相階降。然其始終竟無前後。総此四相以為一念。為麁細鎔融唯是一心故。故説倶時而有皆無自立也。Kgiki02-18R,18L
  (この故に三界の四相はただ一夢心、みな根本無明の力に因る。故に『経〈勝鬘経〉』に云わく「無明住地、その力最も大なり。」この論の下に云わく「当に知るべし、無明は能く一切の染法を生ず」と。これはこの謂なり。また微より著に至りて四相の階降を弁ずといえども、然るにその始終は竟に前後なし。この四相を総ぶるを以て一念となす。麁細鎔融して、ただこれ一心なるがための故に。故に「倶時にして有り、みな自立なし」と説くなり。)Kgiki02-18R,18L

 然未窮源者。随行浅深覚有前後。達心源者。一念四相倶時而知。経云。菩薩知終不知始。唯仏如来始終倶知。始者謂生相也。終者謂余相乃至滅相也。既因無明不覚之力。起生相等種種夢念。動其心源転至滅相。長眠三界流転六趣。今因本覚不思議熏力起厭求心。又因真心所流聞熏教法熏於本覚。以体同用融。領彼聞熏。益性解力。損無明能。漸向心源。始息滅相。終息生相。朗然大悟覚了心源本無所動。今無始静。平等平等。無始覚之異。如経所説夢渡河喩等。大意如此。Kgiki02-18L
  (然るに未だ源を窮まざれば、行の浅深に随りて覚に前後あり。心源に達すれば、一念に四相倶時にして知る。『経〈菩薩瓔珞本業経〉』に云わく「菩薩は終を知るも始を知らず。ただ仏如来のみ始終を倶に知る」と。「始」とは謂く生相なり。「終」とは謂く余相、乃至、滅相なり。既に無明不覚の力に因りて生相等の種種の夢念を起こす。その心源を動じて転じて滅相に至る。長く三界に眠りて六趣に流転す。今、本覚不思議の熏力に因りて厭求の心を起こす。また真心所流の聞熏の教法、本覚に熏ずるに因りて、体同じく用融するを以て、彼の聞熏を領し、性解の力を益し、無明の能を損して、漸く心源に向かい、始めて滅相を息して、終に生相を息して、朗然として大悟して、心源を覚了す。本、所動なく、今、始めて静かなることなし。平等平等にして始覚の異なし。経に説く所の夢に河を渡る喩等の如し。大意かくの如し。)Kgiki02-18L

 ○次釈文中。約寄四相以別四位。四位之中各有四義。一能観人。二所観相。三観利益。四観分斉。Kgiki02-18L,19R
  (○次に釈文の中に、四相に寄せて以て四位を別するに約す。四位の中におのおの四義あり。一に能観の人、二に所観の相、三に観の利益、四に観の分斉。)Kgiki02-18L,19R

【論】此義云何。如凡夫人覚知前念起悪故。能止後念令其不起。雖復名覚即是不覚故。Kgiki02-19R
【論】 (この義云何。凡夫の人の如き、前念の起悪を覚知するが故に、能く後念を止めて、それをして起こさざらしむ。また覚と名づくといえども即ちこれ不覚なるが故に。)Kgiki02-19R

 初位中。如凡人者。是能観人。位在十信也。覚知前念起悪者。明所観相。謂未入十信已前。広造身口悪業而不覚知。今入信位。能知悪業定招苦報。故言覚知。此明覚於滅相義也。能止後念令不起者。弁観利益。前由不覚常起身口悪業。今既覚故能不造悪。止滅相也。雖復名覚即是不覚者。結観分斉。能知滅相実是不善。故不造悪。名為雖覚。而猶未知滅相是夢。故云不覚。此但能止悪業。故云雖覚。未覚煩悩。故云不覚也。Kgiki02-19R
  (初位の中に「凡人の如き〈如凡夫人〉」とは、これ能観の人。位は十信に在るなり。「前念の起悪を覚知〈覚知前念起悪〉」とは、これ所観の相を明かす。謂く未だ十信に入らざる已前は、広く身口の悪業を造りて覚知せず。今、信位に入りて、能く悪業は定んで苦報を招くと知る。故に「覚知」という。これ滅相を覚する義を明すなり。「能く後念を止めて起こさざらしむ〈能止後念令其不起〉」とは、観の利益を弁ず。前に不覚に由りて常に身口悪業を起こす。今既に覚するが故に能く悪を造くらず。滅相を止むなり。「また覚と名づくといえども即ちこれ不覚〈雖復名覚即是不覚〉」とは、観の分斉を結す。能く滅相は実にこれ不善なりと知る。故に悪を造らざるを名づけて「雖覚」となす。而して猶お未だ滅相はこれ夢なりと知らず。故に「不覚」という。これはただ能く悪業を止むるが故に「雖覚」といい、未だ煩悩を覚さざるが故に「不覚」というなり。)Kgiki02-19R

 問。覚異相等亦不覚後。為何不亦立不覚之名。答。若拠覚前不覚後亦得名不覚。故下文乃至十地皆不覚。若得覚業不覚惑。正名為不覚。即此文也。以覚与惑正酬対故。非於業也。Kgiki02-19R,19L
  (問う。異相等を覚して、また後を覚さず。何のためぞ、また不覚の名を立てざる。答う。もし前を覚して後を覚さざるに拠りて、また不覚と名づくることを得。故に下の文に、乃至十地にみな覚さず、もし業を覚することを得て惑を覚さざるを、正しく名づけて不覚となす。即ちこの文なり。覚と惑と正しく酬対するを以ての故に、業にあらざるなり。)Kgiki02-19R,19L

【論】如二乗観智初発意菩薩等。覚於念異念無異相。以捨麁分別執著相故名相似覚。Kgiki02-19L
【論】 (二乗の観智、初発意の菩薩等の如きは、念異を覚して、念に異相なし。麁分別の執著の相を捨するを以ての故に相似覚と名づく。)Kgiki02-19L

 第二位中。能観人者十解以上三賢菩薩。十解初心名発心住。挙此初人等取後位。故云初発意等也。以此菩薩雖留惑故不証人空。然此位菩薩於人空実得自在故。与二乗同位論也。覚於念異者。明所観相。如上所説二種異相分別内外計我我所貪瞋見愛等。此二種人共了知故。明本浄心為無明所眠。夢於異相起諸煩悩。而今漸与智慧相応。従異相夢而得微覚。故云覚於念異也。Kgiki02-19L
  (第二位の中に、能観の人は十解以上、三賢の菩薩なり。十解の初心を発心住と名づく。この初人を挙げて後位を等取するが故に「初発意」等というなり。この菩薩は惑を留むるが故に人空を証せずといえども、然るにこの位の菩薩は人空に於いて実に自在を得るを以ての故に二乗と同位に論ずるなり。「念異を覚して〈覚於念異〉」とは、所観の相を明かす。上に説く所の二種の異相の、内外を分別し、我我所を計する貪瞋見愛等の如きは、この二種の人は共に了知するが故に。本〈もと〉浄心は無明のために眠ぜられ、異相を夢みて諸の煩悩を起こし、而して今漸く智慧と相応して異相の夢によりて微覚を得ることを明かす。故に「念異を覚して〈覚於念異〉」というなり。)Kgiki02-19L

 観利益者。既能覚異相之夢。故彼所夢異相永無所有。故云念無異相也。以捨麁分別執著相者。釈成益相。起貪瞋等名麁分別。著違順境名執著相。以於異相夢覚故能捨之。而猶眠在住相夢中。故名相似覚。即結観分斉也。以此位中菩薩未至証位。二乗不了法空故。云相似覚。Kgiki02-19L,20R
  (観利益とは、既に能く異相の夢を覚するが故に彼の所夢の異相は永く所有なし。故に「念に異相なし〈念無異相〉」というなり。「麁分別の執著の相を捨するを以て〈以捨麁分別執著相〉」とは、益相を釈成す。貪瞋等を起こすを「麁分別」と名づく。違順の境に著するを「執著相」と名づく。異相の夢に於いて覚するを以ての故に能くこれを捨す。而してなお眠じて住相の夢中に在るが故に「相似覚」と名づく。即ち観の分斉を結するなり。この位の中の菩薩は未だ証位に至らず、二乗は法空を了せざるを以ての故に「相似覚」という。)Kgiki02-19L,20R

【論】如法身菩薩等。覚於念住念無住相。以離分別麁念相故名随分覚。Kgiki02-20R
【論】 (法身の菩薩等の如きは、念住を覚して、念に住相なし。分別麁念の相を離るるを以ての故に随分覚と名づく。)Kgiki02-20R

 第三位中。能観人者。初地菩薩証法身遍満義。乃至九地悉同証得。皆名法身菩薩也。覚念住者。覚前四種住相。雖知一切法唯是識故。不起心外妄繋麁執分別。然出観後。於自心所現法上。猶起染浄法執分別。以彼浄心為無明所眠。夢於住相。今与無分別智相応。従住相夢而得覚悟。反照住相竟無所有。故云覚於念住念無住相也。Kgiki02-20R
  (第三位の中に能観の人は、初地菩薩は法身遍満の義を証し、乃至、九地に悉く同じく証得するを、みな法身の菩薩と名づくるなり。「念住を覚す〈覚於念住〉」とは、前の四種の住相を覚す。一切の法はただこれ識なりと知るが故に、心外の妄繋、麁執の分別を起こさずといえども、然るに出観の後に自心所現の法の上に於いて、なお染浄法執分別を起こす。彼の浄心は無明のために眠せられて、住相を夢みるを以て、今、無分別智と相応して、住相の夢によりて覚悟を得。反りて住相を照らすに竟に所有なし。故に「念住を覚して、念に住相なし〈覚於念住念無住相〉」というなり。)Kgiki02-20R

 以離分別麁念相者。顕観利益。異前人執及著外境故。今約心但云分別。又異後根本無明生相細念故。云麁念相也。此四種住相中。於初地七地八地九地。各離一相也。下文自当顕耳。雖於麁念住相而得覚悟。猶自眠於生相夢中覚道未円。故云随分。即結観分斉也。Kgiki02-20R,20L
  (「分別麁念の相を離るるを以て〈以離分別麁念相〉」とは、観の利益を顕す。前の人執及び外境に著するに異するが故に、今、心の約して、ただ「分別」という。また後の根本無明・生相の細念に異するが故に「麁念相」というなり。この四種の住相の中に、初地・七地・八地・九地に於いて、おのおの一相を離るるなり。下の文に自ら当に顕わすべきのみ。麁念の住相に於いて而も覚悟を得といえども、猶し自ら生相の夢中に眠じて覚道は未だ円ならず。故に「随分」という。即ち観の分斉を結するなり。)Kgiki02-20R,20L

【論】如菩薩地尽。満足方便一念相応覚心初起。心無初相。以遠離微細念故。得見心性心即常住。名究竟覚。Kgiki02-20L
【論】 (菩薩地尽の如きは、方便を満足して一念相応し心の初起を覚して、心に初相なし。微細の念を遠離するを以ての故に、心性を見ることを得て、心は即ち常住なるを究竟覚と名づく。)Kgiki02-20L

 第四位中。菩薩地尽者。謂十地覚窮故云尽也。此是総挙。下二句別明也。方便満足是方便道。一念相応者。是無間道。如対法論云。究竟道者。謂金剛喩定。此有二種。謂方便道摂。及無間道摂。即是此中能観人也。Kgiki02-20L
  (第四位の中に「菩薩地尽」とは、謂く、十地覚窮なるが故に「尽」というなり。これはこれ総じて挙ぐ。下の二句は別して明かすなり。方便満足す。これ方便道なり。「一念相応」とは、これ無間道なり。『対法論〈大乗阿毘達磨雑集論〉』に云うが如し。「究竟道とは、謂く、金剛喩定なり。これに二種あり。謂く、方便道の摂と、及び無間道の摂。」即ちこれはこの中の能観の人なり。)Kgiki02-20L

 覚心初起者。挙所観境。心初起者。明根本無明依覚故迷。動彼静心令起微念。今乃覚知離本覚無不覚。即動心本来寂。猶如迷方謂東為西。悟時即西是東。更無西相。故云心無初相也。前三位中。雖各有所覚。以其動念未尽故。但言念無住相等。今此究竟位中。動念都尽唯一心在。故云心無初相也。Kgiki02-20L,21R
  (「心の初起を覚して〈覚心初起〉」とは、所観の境を挙ぐ。「心初起」とは、根本無明は覚に依るが故に迷い、彼の静心を動じて微念を起こさしめ、今、乃ち本覚を離れて不覚なく、動心に即して本来寂なり。猶し方に迷いて東をいいて西となし、悟る時に即ち西はこれ東にして、更に西相なきが如しと覚知することを明かす。故に「心に初相なし〈心無初相〉」というなり。前の三位の中には、おのおの所覚ありといえども、その動念は未だ尽きざるを以ての故に、ただ「念に住相なし〈念無住相〉」等といい、今この究竟位の中には動念都て尽き、ただ一心のみ在り。故に「心に初相なし〈心無初相〉」というなり。)Kgiki02-20L,21R

 離細念者。明観利益。業識動念念中最細。名微細念。謂生相也。此相都尽永無所余。故言遠離。遠離虚相故。真性即顕現。故云見心性也。前三位中相不尽故。不云見性也。前諸位中覚未至源。猶夢生相動彼静心。成業識等起滅不住。今此生相夢尽。無明風止性海浪歇。湛然常住。故云得見心性心即常住也。Kgiki02-21R
  (「細念を離る〈遠離微細念〉」とは、観の利益を明かす。業識の動念は念の中に最細なるを「微細念」と名づく。謂く、生相なり。この相は都て尽き永く所余なきが故に「遠離」という。虚相を遠離するが故に、真性即ち顕現す。故に「心性を見る〈見心性〉」というなり。前の三位の中には、相は尽きざるが故に「見性」といわざるなり。前の諸位の中に、覚は未だ源に至らず。猶し生相を夢みて彼の静心を動じ、業識等を成じて起滅住〈や〉まず。今はこれ生相の夢尽き、無明の風止み、性海の浪歇きて、湛然常住なり。故に「心性を見ることを得て、心は即ち常住〈得見心性心即常住〉」というなり。)Kgiki02-21R

 究竟覚者。前未至心源。夢念未尽。求滅此動望到彼岸。今既夢念都尽。覚了心源。本不流転。今無始静。常自一心。平等平等。始不異本。名究竟覚。即結分斉也。Kgiki02-21R,20L
  (「究竟覚」とは、前は未だ心源に至らず、夢念未だ尽きず、この動を滅せんと求め、彼岸に到らんと望む。今は既に夢念都て尽き、心源を覚了するに、本〈もと〉流転せず、今始めて静なることなし。常に自ずから一心、平等平等にして、始は本に異ならざるを「究竟覚」と名づく。即ち分斉を結するなり。)Kgiki02-21R,20L

 ○第二引釈中有四。初引経。二重釈前文。三是故下挙不覚之失。四若得下顕覚者之得。Kgiki02-21L
  (○第二に引釈の中に四あり。初に経を引き、二に重ねて前文を釈し、三に「是故」の下は不覚の失を挙げ、四に「若得」の下は覚者の得を顕す。)Kgiki02-21L

【論】是故脩多羅説。若有衆生能観無念者。則為向仏智故。Kgiki02-21L
【論】 (この故に脩多羅に、もし衆生ありて能く無念を観ずる者は、則ち仏に向かう智となすと説くが故に。)Kgiki02-21L

 初中言能観無念向仏智者。在因地時。雖未離念。能観如此無念道理。説此能観為向仏智。以是証知仏地無念。此是挙因望果説也。Kgiki02-21L
  (初の中に「能く無念を観じて仏智に向かう〈能観無念者則為向仏智〉」というは、因地に在る時は、未だ念を離れずといえども、能くかくの如きの無念の道理を観ず。この能観を説きて仏に向かう智となす。これを以て仏地の無念を証知す。これはこれ因を挙げて果に望みて説くなり。)Kgiki02-21L

 若引就位通説者。如金光明経言。依諸伏道起事心滅。依法断道依根本心滅。依勝拔道根本心尽。此言諸伏道者。謂三賢位。起事心滅者。即此論中捨麁分別執著相。是異相滅也。法断道者。在法身位。依根本心滅者。猶此論中捨麁念相。即是住相滅也。勝拔道者。金剛喩定。根本心尽者。猶此論中離微細念。是生相尽也。Kgiki02-21L
  (もし位に就きて通じて説を引かば、『金光明経』に言うが如し。「諸の伏道に依りて起事心滅す。法の断道に依りて、依る根本心滅す。勝拔道に依りて根本心尽く。」ここに「諸伏道」というは、謂く、三賢の位なり。「起事心滅」とは即ちこの論の中の麁分別執著の相を捨つる、これ異相滅するなり。「法断道」とは、法身の位に在り。「依根本心滅」とは、猶しこの論の中の麁念の相を捨す、即ちこれ住相滅するがごときなり。「勝拔道」とは金剛喩定なり。「根本心尽」とは、猶しこの論の中の微細の念を離る、これ生相尽くるがごときなり。)Kgiki02-21L

【論】又心起者。無有初相可知。而言知初相者即謂無念。Kgiki02-21L,22R
【論】 (また心起とは、初相の知るべきことあることなし。而して初相を知るというは、即ち謂く無念なり。)Kgiki02-21L,22R

 重釈中言又心起者。牒上覚心初起之言。非謂覚時知有初相。故云無初可知。既無初相。何故説言知初相耶。釈云。言知初者。即謂無念。譬覚方時。知西即東。更無西相可知。言知西者。謂即東也。覚心之時。知初動念即本来静。故云即無念也。Kgiki02-22R
  (重釈の中に「又心起」というは、上の「心の初起を覚す〈覚心初起〉」の言を牒す。覚する時に初相ありと知るというにあらず。故に「初の知るべきことなし〈無有初相可知〉」。既に初相なし。何が故に説きて「初相を知る〈知初相〉」というや。釈して云わく。初を知るというは、即ち謂く無念なり。譬えば方を覚する時に、西即ち東と知る。更に西相の知るべきことなし。西を知るというは、謂く即ち東なり。心を覚するの時に、初の動念は即ち本来静と知る。故に「即ち無念〈即謂無念〉」というなり。)Kgiki02-22R

【論】是故一切衆生不名為覚。以従本来念念相続未曽離念故。説無始無明。Kgiki02-22R
【論】 (この故に一切衆生は名づけて覚となさず。本より来た念念相続して、未だ曽て念を離れざるを以ての故に、無始の無明と説く。)Kgiki02-22R

 挙失中言是故者。是前無念名為覚故。即顕有念不得名覚。以従本来等者。顕不覚所以。即金剛已還一切衆生未離無始無明之念。故不得覚名。然則前対四相夢之差別故説漸覚。今約無明眠之無異故説不覚。Kgiki02-22R
  (失を挙ぐる中に「是故」というは、これ前の無念を名づけて覚となすが故に、即ち有念を覚と名づくることを得ざることを顕す。「以従本来」等とは、不覚の所以を顕す。即ち金剛已還の一切衆生は未だ無始無明の念を離れず。故に覚の名を得ず。然るに則ち前に四相の夢の差別に対するが故に漸覚と説く。今は無明の眠の異なきに約するが故に不覚と説く。)Kgiki02-22R

 如仁王経言。始従伏忍至頂三昧。照第一義諦。不名為見。所謂見者。是薩婆若故。此之謂也。故説無始無明者。結成不覚義也。此顕無有染法始於無明。故云無始也。又無明依真。同無元始故也。Kgiki02-22R,22L
  (『仁王経』に言うが如し。「始め伏忍より頂三昧に至るまで第一義諦を照す。名づけて見となさず。所謂見とは、これ薩婆若なるが故に。」この謂なり。「故に無始の無明と説く〈故説無始無明〉」とは、不覚の義を結成するなり。これ染法の、無明より始なるものあることなきを顕す。故に「無始」というなり。また無明は真に依る。同じく元始なきが故なり。)Kgiki02-22R,22L

【論】若得無念者。則知心相生住異滅。以無念等故。Kgiki02-22L
【論】 (もし無念を得れば、則ち心相の生住異滅を知る。無念等しきを以ての故に。)Kgiki02-22L

 下顕得中。若至心源得於無念則遍知一切衆生一心動転四相差別。故言若得無念者則知心生住異滅也。以無念等故者。釈成上義。Kgiki02-22L
  (下に「得」を顕す中に、もし心源に至りて無念を得れば、則ち遍く一切衆生の一心の動転する四相の差別を知るが故に「もし無念を得れば則ち心の生住異滅を知る〈若得無念者則知心相生住異滅〉」というなり。「無念等しきを以ての故に〈以無念等故〉」とは、上の義を釈成す。)Kgiki02-22L

 疑云。仏得無念。衆生有念。有無懸隔。云何能知也。釈云。衆生有念。本来無念。仏既得修無念。無念与念本来平等。故云以無念等故。是故得知也。又釈云。以四相念中各即無念故。云以無念等也。是故得無念者。遍知四相念也。Kgiki02-22L
  (疑いて云わく。仏は無念を得、衆生は有念なり。有無懸〈はる〉かに隔つ。云何ぞ能く知るや。釈して云く。衆生の有念は本来無念なり。仏は既に無念を得修す。無念と念と本来平等なり。故に「無念等しきを以ての故に〈以無念等故〉」という。この故に知ることを得るなり。また釈して云わく。四相の念の中におのおの即ち無念なるを以ての故に「無念等しきを以ての故に〈以無念等故〉」というなり。この故に無念を得れば、遍く四相の念を知るなり。)Kgiki02-22L

 ○自下明始不異本。於中初標次釈。Kgiki02-22L
  (○自下、始は本に異ならざることを明かす。中に於いて、初に標、次に釈。)Kgiki02-22L

【論】而実無有始覚之異。以四相倶時而有。皆無自立。本来平等同一覚故。Kgiki02-22L,23R
【論】 (而して実に始覚の異あることなし。四相倶時にして有り。みな自立なく、本来平等にして同一覚なるを以ての故に。)Kgiki02-22L,23R

 雖始得無念之覚。然其所覚四相本来無起。待何不覚而有始覚之異。以四相倶時下釈成上義。以彼四相一心所成。鉤鎖連注無有前後。離浄心外無別自体。無自体故本来平等同一本覚。然未至此位。随其智力前後而覚。未称法故不得同本。今既四相倶時平等。覚知皆無自体。同一本覚。是故則無始覚之異。Kgiki02-23R
  (始めて無念の覚を得といえども、然るにその所覚の四相は本来起こることなし。何の不覚を待ちて始覚の異あらん。「以四相倶時」の下は上の義を釈成す。彼の四相は一心の所成なるを以て、鉤鎖連注して前後あることなし。浄心を離れて外に別の自体なし。自体なきが故に本来平等にして同一本覚なり。然るに未だこの位に至らず、その智力に随いて前後に覚す。未だ法に称わざるが故に本に同ずることを得ず。今既に四相倶時平等にして皆自体なきことを覚知す。同一の本覚なり。この故に則ち始覚の異なし。)Kgiki02-23R

 問。四相云何而得倶時。既其倶時。何故上文覚有前後。答。上已弁竟。謂唯一夢心四相流転。処夢之士謂為前後。各各随其智力浅深。分分而覚。然大覚之者。知夢四相唯一浄心無有体性可弁前後。故云倶時無有自立等也。Kgiki02-23R
  (問う。四相云何が倶時を得るや。既にそれ倶時。何が故ぞ上の文に覚に前後あるや。答う。上に已に弁じ竟わる。謂く、ただ一夢の心、四相に流転す。夢に処するの士は前後と謂為〈おもいなし〉て、おのおのその智力浅深に随いて、分分に覚す。然るに大覚の者は夢の四相はただ一の浄心にして体性の前後の弁ずべきことあることなきを知る。故に「倶時にして自立あることなし〈倶時而有。皆無自立〉」等というなり。)Kgiki02-23R

 故摂論云。処夢謂経年。悟乃須臾頃。故時雖無量。摂在一刹那。此中一刹那者。即謂無念。楞伽云。一切法不生。我説刹那義。初生即有滅。不為愚者説。解云。以刹那流転必無自性。無自性故即是無生。若非無生則不流転。是故契無生者方見刹那也。又浄名経中。不生不滅是無常義等。Kgiki02-23R,23L
  (故に『摂論〈摂大乗論釈 玄奘訳〉』に云わく「夢に処して年を経という。悟れば乃ち須臾の頃。故に時は無量なりといえども、一刹那に摂在す」と。この中の一刹那とは、即ち謂く無念なり。『楞伽〈楞伽阿跋多羅宝経〉』云わく「一切の法は不生。我、刹那の義を説く。初生に即ち滅あり。愚者のために説かず。」解して云わく。刹那流転して必ず自性なきを以て、自性なきが故に即ちこれ無生。もし無生にあらざれば則ち流転せず。この故に無生に契えば方に刹那を見るなり。また『浄名経〈維摩詰所説経〉』の中に「不生不滅はこれ無常の義」等。)Kgiki02-23R,23L

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