修行の四階段の四・究竟覚について、本論の『起信論』は次のように述べられる。
「菩薩地尽の如きは、方便を満足して一念相応し、心の初起を覚って、心に初相無し。微細の念を遠離するを以ての故に、心性を見ることを得て、心は即ち常住なるを究竟覚と名づく。」である。
『義記』における第四位の究竟覚については次のようになる。
能観の人は菩薩地尽の修行者である。菩薩地尽とは初地から十地までの修行を完成し、十地の覚を窮まっているので、「尽」という。菩薩地尽者は即ち究竟覚を得た者であり、『対法論(大乗阿毘達磨雑集論)』によれば「究竟道(究竟覚)」は方便道と無間道を摂している。故に、「方便を満足し」というのは方便道を指し、「一念相応し」とは無間道のことである。「方便を満足す」とは、方便道・加行道のことであり、即ちもっとも微細な、最後の煩悩を断ずるため、前行の方便としての、功徳を積んだ、禅定力を深め、六度万行の全ての準備・条件が完成したことである。「一念と相応す」とは、無間道のことであり、無間道は無障碍道もいい、「煩悩を我が身に引き付けて関係付けている力(煩悩の得)を断つのに、隔たりや障碍がなく、解脱のために縁となることを妨げる同類の道がない」(義記P.92)という意味で、即ち煩悩の因を断って、悟り・真如と相応するようにして、身に引き起こそうとする階段である。このような方便道と無間道は金剛喩定といい、即ち究竟道である。この方便道と無間道の金剛喩定において、初相(心の初起・微細の念)を観じ、断ずることができるようになるのである。
所観の境は「心の初起を覚して、心に初相無し」である。「心の初起を覚す」については、如来蔵・真如が自性を守らずの故に、縁に従って転じているのに染と浄、さらに不覚と覚の両側が設定される。心の初起(生・住・異・滅の四相の生相)とは即ち本覚真如が縁によって動かして、最初の一の微細の念が起こすことである。一般的に、この最初の一念に覚知できない故、たくさんの念が最初の一念に従って生まれ続き、これらの念に落ちるしかない状態を迷いという。逆に、この最初の一念を覚知すれば、「心の初起を覚す」ということとなる。この最初の一念を覚知して、諸法(全ての存在)はこの一念から生まれたと分かり、さらにこの一念を離れて、離言説の「一心」が現れ、「心に初相無し」と分かるのである。
観の利益は「微細の念を遠離する」である。無明の業識(染性)によって起こした最初の一念はもっとも細かくて、微細という。既に述べたように、この最初の一念に従って、たくさんの念が起こり続き、細かいから粗くなり、ついに大きい煩悩となる。故に、微細の初起の念を覚知して、離れれば、煩悩も完全になくなるのである。
観の文斉は「究竟覚」であり、四階段の第四位で、菩薩十地の最後の階段である。これ以上は極める円満の如来地・仏になる。
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