義記における修行の四階段 一

ーー修行の内実(転識)と修行の四階段

 「煩悩即菩提、生死即涅槃」等のように、大乗仏教の智慧、あるいは大乗仏教の精神と言われる。即ち、ありのままでもいい、ありのままでも真実に離れていないである。では、そういうわけで、修行の必要性は未だあるのか、『起信論』によれば、ありのままでも法爾であるが、これは覚と不覚が一体である真実の世界に悟入する覚者の立場である。我々が未だ生滅心・生死の大海に住している凡人には、覚者のように真実の立場に入るため、修行を通じる必要はあたり前である。

 極める真理・智慧、いわゆる真如実性には言葉で正しく表現できないのはたくさんの論文がすでに論じられた。けれども、生滅門から真如門に入るための方法がある。本稿は釈論及び本論の起信論における我々が凡人として、真如門に入り、聖なる四階段(不覚、相似覚、随分覚、究竟覚)をめぐり、そして対応する三細・六粗・十地等も言及したい。もはや高いレベルの修行者になった方にも、自分に誤りのないため、この四階段を明らかにする必要があると思う。

 修行の四階段の第一位(不覚)について、本論の起信論は次のように述べられる。

 「凡夫人の如きは、前念の起悪を覺知して。故に能く後念を止めて其れをして不起ならしむ。復た覺と名づくと雖も即ち是れ不覺なるが故に。」である。

 義記においては、能観の人、所観の相、觀の利益と觀の文斉の四つ、合わせて四義というのを設定され、この四義によって四階段をそれぞれ解釈される。故に、第一位(不覚)について義記の四義によれば、次のようになる。

 能観の人は「凡夫人」である。仏教の信仰が始まり、十信位に当たる人である。

 所観の相は「前念の起悪を覚知す」である。因果応報、戒律などによって、よく反省して、自分の悪い考えが起こる時に、よく気つけるようにする。これはこの階段の修行の操作である。

 観の利益は「よく後念を止め、それをして起こさざらしむ」である。自省の操作によって、起こった悪い考えが続かなくなり、もちろん悪い行為にもならないため、悪い結果も招かないようになる。

 観の分斉(領域)は「また覚と名づくといえども即ちこれ不覚なり」である。この階段では輪廻の滅相は実に不善(良くない)であると知っているから、悪業(悪い行為)を止めるのであり、しかしこのくらいの修行(境地)は「覚」と雖も、未だ、煩悩が本当の智慧への転換をしていなく、真如実相に合っていない、即ち、滅相(輪廻)も真如実相においては存在しないことを知っていないから、未だ「不覚」の位に属しているのである。

義記においてまとめ…

 第二階段、相似覚について。「二乗の観智、初発意の菩薩等の如きは、念異を覚して、念に異相なし。麁分別の執著の相を捨するを以ての故に相似覚と名づく。」

 第三階段、随分覚について。「法身の菩薩等の如きは、念住を覚して、念に住相なし。分別麁念の相を離るるを以ての故に随分覚と名づく。」

 第四階段、究竟覚について。「菩薩地尽の如きは、方便を満足して一念相応し心の初起を覚して、心に初相なし。微細の念を遠離するを以ての故に、心性を見ることを得て、心は即ち常住なるを究竟覚と名づく。」

(済まない)

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