大乗起信論義記 第三冊 中巻 末

大乗起信論義記巻中 (
京兆府魏国西寺沙門釈法蔵撰



 ○第二釈本覚中有二。先明随染本覚。後四鏡下明性浄本覚。又亦可上来総明覚体。此文弁覚相。下四鏡文双明体相也。初随染中文有三。初総標。二列名。三弁相。

 (○第二に本覚を釈する中に二あり。先に随染本覚を明かす。後に「四鏡」の下は性浄本覚を明かす。またまた上来は総じて覚体を明かし、この文は覚相を弁じ、下の「四鏡」の文は双べ体相を明すべきなり。初に随染の中に、文に三あり。初に総標。二に列名。三に弁相。)
【論】復次本覚随染分別。生二種相。与彼本覚不相捨離。
【論】(また次に本覚随染を分別するに二種の相を生ず。彼の本覚と相い捨離せず。)
 初中言生二種者。此二既在随動門中。故云生也。生已不離不動覚体。故云与彼不相離也。
 (初の中に「生二種」というは、この二は既に随動門の中に在り。故に「生」というなり。生じ已りて不動の覚体を離れず。故に「与彼不相離〈彼の本覚と相い捨離せず〉」というなり。
【論】云何為二。一者智浄相。二者不思議業相。
【論】(云何が二となす。一には智浄相。二には不思議業相。)
 言智浄相者。明本覚随染還浄之相。不思議業相者。明還浄本覚業用之相。此之二相若離染縁則不得成。故云随染也。

(「智浄相」というは、本覚随染還浄の相を明かす。「不思議業相」とは、還浄本覚業用の相を明かす。この二相は、もし染縁を離るれば則ち成ずることを得ず。故に「随染」というなり。)

 ○第三弁相中二。先明智浄。於中有二。初直明浄相。後此義云何下問答釈成。前中亦二。初因後果。
 (○第三に弁相の中に二。先に智浄を明かす。中に於いて二あり。初に直ちに浄相を明かし、後に「此義云何」の下は問答釈成す。前の中にまた二。初に因、後に果。
【論】智浄相者。謂依法力熏習。如実修行。満足方便故。
【論】(智浄相とは、謂く法力熏習に依りて、如実修行し、方便を満足するが故に。)
 因中依法力熏習者。謂真如内熏之力。及所流教法外縁熏力。此在地前。依此熏力修習資糧加行善根。登地已上。行契証如。故云如実修行。十地行終故云満足方便。此在金剛因位極也。

(因の中に「依法力熏習〈法力熏習に依りて〉」とは、謂く、真如内熏の力、及び所流の教法、外縁の熏力なり。これは地前に在り。この熏力に依りて資糧加行の善根を修習す。登地已上に行は如に契証す。故に「如実修行」という。十地の行終るが故に「満足方便」という。これ金剛因位の極に在るなり。)
【論】破和合識相。滅相続心相。顕現法身。智淳浄故。
【論】(和合の識の相を破し、相続の心の相を滅して、法身を顕現し、智淳浄なるが故に。)
 果中二。初断果。後智果。由前方便能破和合識内生滅之相。顕其不生滅之性。此根本無明尽故心無所合。即顕法身本覚義也。即於此時能滅染心之中業相等相続之相。不滅相続心体故。令随染本覚之心遂即還源。成淳浄円智。成於応身始覚義也。然此始覚無別始起。即是本覚随染作也。今染縁既息始還同本。故云淳浄也。
 (果の中に二。初に断果。後に智果。前の方便に由りて能く和合識の内の生滅の相を破し、その不生滅の性を顕す。この根本無明尽くが故に心に所合なし。即ち法身本覚を顕す義なり。即ちこの時に於いて能く染心の中の業相等の相続の相を滅し、相続の心体を滅せざるが故に、随染本覚の心をして遂に即ち源に還り、淳浄円智を成じ、応身始覚の義を成するなり。然るにこの始覚は別に始めて起こることなし。即ちこれ本覚随染の作なり。今、染縁は既に息して、始は還りて本に同ず。故に「淳浄」というなり。)

 ○釈疑中初問後答。問中執真同妄難。後簡妄異真答。
(○釈疑の中に初に問、後に答。問の中に真は妄に同ずと執して難ず。後に妄は真に異なりと簡びて答う。)
【論】此義云何。

【論】(この義いかん。)
 難意云。如上所説。動彼静心成於起滅。今既尽於生滅。応滅静心。故云此義云何也。

(難の意に云く。上の所説の如きは、彼の静心を動じて起滅を成ず。今、既に生滅を尽くす。応に静心を滅すべし。故に「此義云何」というなり。)


 ○答中法喩合三也。
(○答の中に法と喩と合との三なり。)
【論】以一切心識之相皆是無明。無明之相不離覚性。非可壊非不可壊。

【論】(一切の心識の相は皆これ無明にして、無明の相は覚性を離れざるを以て、壊すべきにあらず、壊すべからざるにあらず。)
 答意云。業等染心名諸識相。此等皆是不覚之相。故云心識之相皆是無明。非約心体説也。又更転難云。既言識相皆是無明故説滅者。即応別有体性離於真如。即真妄別体難也。答云。如此諸識不覚之相不離随染本覚之性。以是故云不離覚性。
 (答の意に云く。業等の染心を諸識の相と名づく。これ等は皆これ不覚の相なり。故に「心識之相皆是無明〈心識の相は皆これ無明〉」という。心体に約して説くにあらざるなり。また更に転難して云く。既に識の相は皆これ無明の故に滅と説くというは、即ち応に別に体性ありて真如を離るべし。即ち真妄別体の難なり。答えて云く。かくの如きの諸識不覚の相は随染本覚の性を離れず。これを以ての故に「不離覚性〈覚性を離れず〉」という。)
 此無明之相与彼本覚之性非一非異。非異故非可壊。非一故非不可壊。若依非異非可壊義。説無明即明。故涅槃経云。明与無明其性不二。不二之性即是実性。若就非一非不可壊義。説無明滅覚性不壊。滅惑之義準此知之。

(この無明の相と彼の本覚の性と、一にあらず、異にあらず。異にあらざるが故に壊すべからず。一にあらざるが故に壊すべからざるにあらず。もし異にあらず壊すべきにあらざるの義に依らば、無明は即ち明と説く。故に『涅槃経』に云く「明と無明と、その性は不二なり。不二の性は即ちこれ実性なり。」もし一にあらず壊すべからざるにあらざる義に就かば、無明は滅して、覚性は壊せずと説く。滅惑の義はこれに準じてこれを知るべし。)

 ○喩中四句。
(○喩の中に四句。)
【論】如大海水因風波動。水相風相不相捨離。而水非動性。若風止滅動相則滅。湿性不壊故。
【論】(大海の水は風に因りて波動し、水相と風相と相い捨離せず。而して水は動性にあらず。もし風止滅すれば、動相は則ち滅し、湿性は壊せざるが如きなるが故に。)
 初句真随妄転喩。次水風不相離者。真妄相依喩。水非動性者。真体不変喩。此顕非自性動但随他動也。若風止等下息妄顕真喩。此明若自性動者。動相滅時湿性随滅。而但随他動故。動相滅時湿性不壊也。
 (初句、真は妄に随いて転ずる喩。次に「水風不相離〈水相風相不相捨離〉」とは、真妄相い依る喩。「水は動性にあらず〈水非動性〉」とは、真体不変の喩。これ自性動にあらず、ただ他に随いて動ずることを顕すなり。「若風止〈もし風止滅すれば〉」等の下は妄を息して真を顕す喩。これ、もし自性動ぜば、動相滅する時に湿性も随いて滅すべし。而してただ他に随いて動ずるが故に、動相滅する時に湿性は壊せざることを明かすなり。)

 ○合中次第合之。
(○合の中、次第してこれを合す。)
【論】如是衆生自性清浄心。因無明風動。心与無明倶無形相不相捨離。而心非動性。若無明滅相続則滅。智性不壊故。
【論】(かくの如く衆生の自性清浄の心は無明の風に因りて動ず。心と無明と倶に形相なくして相い捨離せず。而して心は動性にあらざれば、もし無明滅すれば相続則ち滅し、智性は壊せざるが故に。)
 初浄心合海也。因無明動者。合風起水成於波浪。以水不能自浪。要因風起波也。風不能自現動相。要依於水方現動也。故動即水。動無別体也。所況可知。
 (初に浄心を海に合するなり。「無明の風に因りて〈因無明動〉」とは、風の、水を起こして波浪と成るに合す。水は自ら浪だつこと能わず、要ず風に因りて波を起こすを以てなり。風は自ら動相を現ずること能わず。要ず水に依りて方に動を現ずるなり。故に動は即ち水なり。動に別の体なきなり。所況〈たとえるところ〉、知んぬべし。)
 倶無形相不相離者。合相依也。以湿全動故。無於水相。以動全湿故。無於風相。心法亦爾。真心随熏全作識浪。故無心相。然彼識浪無非是真。故無無明相。故摂論云。見此不見彼等。又云。若見一分。余分性不異等。又云。即生死故不見涅槃。即涅槃故不見生死等。如摂論第二殊勝後広説。
 (「倶に形相なくして相い捨離せず〈倶無形相不相離〉」とは、相依を合するなり。湿の全に動なるを以ての故に水相なし。動の全に湿なるを以ての故に風相なし。心法もまた爾り。真心は熏に随いて全に識浪と作るが故に心相なし。然るに彼の識浪はこれ真ならざることなし。故に無明の相なし。故に『摂論〈真諦訳か?〉』に云く「これを見て、彼を見ず」等。また〈摂大乗論釈 真諦訳〉云く「もし一分を見るは、余分性、異ならず」等。また云く「生死に即するが故に涅槃を見ず。涅槃に即するが故に生死を見ず」等。『摂論』第二殊勝の後に広く説くが如し。)
 心非動者。合水非動性也。無明滅者。是根本無明滅。合風滅也。相続滅者。業識等滅。合動相滅。智性不壊者。随染本覚照察之性。是合湿性不壊。

(「心非動〈心非動性〉」とは、水は動性にあらざるに合するなり。「無明滅〈無明滅すれば〉」とは、これ根本無明滅す。風の滅を合するなり。「相続滅〈相続則滅〉」とは、業識等の滅す。動相の滅を合す。「智性不壊」とは、随染本覚照察の性。これ湿性の不壊を合す。)

 ○第二不思議業中。初標後釈。釈中二。初依体総標。
(○第二に不思議業の中に、初に標、後に釈。釈の中に二。初に体に依りて総じて標す。)
【論】不思議業相者。以依智浄相。能作一切勝妙境界。
【論】(不思議業相とは、智浄相に依るを以て、能く一切の勝妙境界を作す。)
 謂与衆生作六根境界故。宝性論云。諸仏如来身如虚空無相。為諸勝智者作六根境界。示現微妙色。出於妙音声。令嗅仏戒香。与仏妙法味。使覚三昧触。令知深妙法。故名妙境界也。
 (謂く衆生の与〈ため〉に六根の境界を作るが故に。『宝性論』に云く「諸仏如来の身は虚空の無相なるが如く、諸の勝智の者のために六根の境界と作り、微妙の色を示現し、妙音声を出だし、仏の戒香を嗅がしめ、仏の妙法味を与え、三昧の触を覚らしめ、深妙の法を知らしむ。」故に「妙境界」と名づくるなり。)

 ○二所謂下別弁。
(○二に「所謂」の下は別して弁ず。)
【論】所謂無量功徳之相常無断絶。随衆生根自然相応。種種而現得利益故。
【論】(所謂、無量功徳の相は常に断絶し。衆生の根に随いて自然に相応し、種種に現じて利益を得しむるが故に。)
 於中四句。一横顕業徳広多無量。二竪顕業根深窮未来際。三顕業勝能無功応機。四顕業勝利益潤不虚。如此則是報化二身真如大用無始無終相続不絶故。
 (中に於いて四句あり。一に横に業徳の広多無量を顕す。二に竪に業根の深く未来際を窮くすことを顕す。三に業の勝能無功にして機に応ずることを顕す。四に業の勝利益潤の虚ならざることを顕す。かくの如く則ちこの報化の二身、真如の大用は無始無終にして相続して絶せざるが故に。)
 如金光明経云。応身者従無始生死相続不断故。一切諸仏不共之法能摂持故。衆生不尽用亦不尽。故説常住。宝性論云。何者成就自身利益。謂得解脱。遠離煩悩障智障。得無障礙清浄法身。是名成就自身利益。何者成就他身利益。既得成就自身利已。無始世来自然依彼二種仏身。示現世間自在力行。是名成就他身利益。

(『金光明経』に云うが如し。「応身とは無始より生死相続して断えざるが故に、一切諸仏の不共の法は能く摂持するが故に、衆生尽きず、用また尽きざるが故に、常住と説く。」『宝性論』に云く「何者か成就自身利益。謂く、解脱を得、煩悩障智障を遠離し、無障礙清浄法身を得。これを成就自身利益と名づく。何者か成就他身利益。既に自身の利を成就することを得已りて、無始世より来た自然に彼の二種の仏身に依りて、世間自在力行を示現す。これを成就他身の利益と名づく。」)
 問。始得自利已方起利他業。云何利他説無始耶。答。有二釈。一云。如来一念遍応三世所応無始故。能応則無始。猶如一念円智遍達無辺三世之境。境無辺故。智亦無辺。無辺之智所現之相。故得無始亦能無終。此非心識思量所測。故名不思議業也。
 (問う。始めて自利を得已わりて方に利他の業を起こす。云何して利他を無始と説くや。答う。二釈あり。一に云く。如来は一念に遍く三世に応じて、所応無始なるが故に、能応則ち無始なり。猶し一念の円智は遍く無辺三世の境に達し、境無辺なるが故に、智また無辺なるが如し。無辺の智の所現の相なるが故に、無始また能く無終を得。これ心識思量の測る所にあらざるが故に、「不思議業」と名づくるなり。)
 二云。以無明尽故。始覚即本。然彼本覚無始世来常起業用益衆生故。始覚同彼。故亦無始。以一切仏無差別故。無新旧故。皆無始覚之異故。本覚平等無始無終故。故能常化衆生。是真如之用故。云不思議業也。此本覚用与衆生心本来無二。但不覚随流用即不現。妄心厭求。用則於彼心中称根顕現。而不作意我現差別。故云随根自然相応。雖不作意。現無不益。故云種種而現得利益故也。
 (二に云く。無明尽くるを以ての故に、始覚即ち本。然るに彼の本覚は無始世より来た常に業用を起こして衆生を益するが故に、始覚は彼に同じ、故にまた無始なり。一切の仏は差別なきを以ての故に、新旧なきが故に、皆、始覚の異なきが故に、本覚平等にして無始無終の故に、故に能く常に衆生を化す。これ真如の用なるが故に、「不思議業」というなり。この本覚の用と衆生の心と本来無二。ただ不覚随流して用は即ち現ぜず。妄心厭求すれば、用は則ち彼の心中に於いて根に称いて顕現す。而して作意せずして我、差別を現ず。故に「根に随いて自然に相応す〈随衆生根自然相応〉」という。作意せずといえども、現じて益せざることなし。故に「種種而現得利益故〈種種に現じて利益を得しむるが故に〉」というなり。)
 上来随染本覚之相竟。
(上より来た、随染本覚の相竟わる。)

 ○自下第二明性浄本覚。亦可是体相合明。於中有二。謂総標別釈。
(○下より、第二に性浄本覚を明かす。またこれ体相合して明かすべし。中に於いて二あり。謂く、総標と別釈。)
【論】復次覚体相者。有四種大義。与虚空等。猶如浄鏡。
【論】 (また次に覚の体相とは、四種の大義あり。虚空と等しく猶し浄鏡の如し。)
 前中以空及鏡皆有四義故。取之為喩。一空鏡。謂離一切外物之体。二不空鏡。謂鏡体不無能現万象。三浄鏡。謂磨治離垢。四受用鏡。置之高台須者受用。四中前二自性浄。後二離垢浄。又初二就因隠時説。後二就果顕時説。前中約空不空為二。後中約体用為二。又初二体。後二相。故云覚体相也。又初一及第三有空義。第二第四有鏡義。故挙二喩。  

(前の中に、空及び鏡はみな四義あるを以ての故に、これを取りて喩となす。一に空鏡。謂く。一切の外物の体を離る。二に不空鏡。謂く。鏡体は無ならず、能く万象を現ず。三に浄鏡。謂く。磨治して垢を離る。四に受用鏡。これを高台に置きて、須ゆる者の、受用す。四の中に前の二は自性浄。後の二は離垢浄。また初の二は因の隠るる時に就きて説き、後の二は果の顕るる時に就きて説く。前の中は空不空に約して二となす。後の中は体用に約して二となす。また初の二は体。後の二は相。故に「覚体相」というなり。また初の一及び第三は空の義あり。第二と第四とは鏡の義あり。故に二喩を挙ぐ。)

 ○釈中別解四義。
(○釈の中、別して四義を解す。)
【論】云何為四。一者如実空鏡。
【論】(云何が四となす。一は如実空鏡。)
 初内真如中妄法本無。非先有後無。故云如実空。

(初の内、真如の中に妄法は本〈もと〉無。先に有、後に無にあらず。故に「如実空」という。)
【論】遠離一切心鏡界相。無法可現。非覚照義故。
【論】(一切の心鏡界の相を遠離して、法の現ずべきなし。覚照の義にあらざるが故に。)
 下釈空義。倒心妄境本不相応。故云遠離等。非謂有而不現。但以妄法理無故。無可現。如鏡非不能現。但以兔角無故。無可現也。非覚照者有二義。一以妄念望於真智。無覚照之功。以情執違理故。如鏡非即外物。以彼外物無照用義故。即顕鏡中無外物体。二以本覚望於妄法。亦無覚照功能。以妄本無故。如浄眼望空華。無照矚之功。亦如鏡望兔角。
 (下に空の義を釈す。倒心妄境は本〈もと〉相応せず。故に「遠離」等という。有にして現ぜずというにあらず。ただ妄法は理に無なるを以ての故に、現ずべきなし。鏡の現ずること能わざることあらず、ただ兔角は無なるを以ての故に、現ずべきことなきが如きなり。「非覚照」とは二義あり。一に妄念を以て真智に望むるに覚照の功なし。情執は理に違するを以ての故に。鏡の外物に即するにあらず、彼の外物は照用の義なきを以ての故に、即ち鏡中に外物の体なきことを顕すが如し。二に本覚を以て妄法に望むるに、また覚照の功能なし。妄は本〈もと〉無なるを以ての故に。浄眼を空華に望むるに照矚の功なきが如し。また鏡を兔角に望むるが如し。)
 問。若然者。何故下因熏習中即現一切世間法耶。答。彼約依他似法。是此真心随熏所作。無自体故。不異真如。故彼文云。以一切法即真実性故也。今此約遍計所執実法故。無可現也。問。所現似法。豈不由彼執実有耶。答。雖由執実。然似恒非実。如影由質影恒非質。鏡中現影。不現於質。不現質故。故云空鏡。能現影故是因熏也。
 (問う。もし然らば、何が故ぞ下の因熏習の中に即ち一切世間の法を現ずるや。答う。彼は依他の似法に約し、これこの真心は熏に随いて所作して、自体なきが故に、真如に異ならず。故に彼の文に云く「一切の法は即ち真実の性なるを以ての故に」。今これは遍計所執の実法に約するが故に、現ずべきことなきなり。問う。所現の似法は、あに彼の実有と執するに由らざらんや。答う。実に執するに由るといえども、然るに似は恒に実にあらず。影は質に由りて、影は恒に質にあらざるが如し。鏡は中に影を現じて、質を現ぜず。質を現ぜざるが故に、故に「空鏡」という。能く影を現ずるが故に、これ「因熏」なり。)
【論】二者因熏習鏡。謂如実不空。
【論】(二には因熏習鏡。謂く、如実不空。)
 第二因熏中釈内有二因義。初能作現法之因。二作内熏之因。亦可初是因義。後是熏習義。故云因熏習也。言如実不空者。此総出因熏法体。謂有自体及性功徳故。  

(第二に因熏の中の釈の内に二因の義あり。初に能く現法の因と作る。二に内熏の因と作る。また初はこれ因の義、後はこれ熏習の義なるべし。故に「因熏習」というなり。「如実不空」というは、これは総じて因熏の法体を出だす。謂く、自体及び性功徳あるが故に。)


 ○下別釈二因。
(○下に別して二因を釈す。)
【論】一切世間境界。悉於中現不出不入不失不壊。常住一心。以一切法即真実性故。

【論】(一切世間の境界は、悉く中に於いて現じて、不出、不入、不失、不壊にして、常住一心なり。一切の法は即ち真実の性なるを以ての故に。)
 初中一切世間境界悉現者。明一切法離此心外無別体性。猶如鏡中能現影也。不出者。明心待熏故変現諸法。非不待熏而自出也。不入者。離心無能熏故。不従外入也。不失者。雖復不従内出外入。然縁起之法顕現不無。故云不失也。不壊者。諸法縁集起無所従。不異真如。故不可壊。如鏡中影非刃能傷。以同鏡故不可壊也。常住一心者。会相同体。
 (初の中に「一切世間境界悉現〈一切世間境界悉於中現〉」とは、一切法はこの心を離れて外に別の体性なきことを明かす。猶し鏡中に能く影を現ずるが如きなり。「不出」とは、心は熏を待つが故に諸法を変現して、熏を待たずして自ら出づるにあらざることを明かすなり。「不入」とは、心を離れて能熏なきが故に、外より入らざるなり。「不失」とは、また内より出でて外より入らずといえども、然るに縁起の法は顕現して無ならざるが故に「不失」というなり。「不壊」とは、諸法の縁集まりて起こるに所従なし。真如に異ならざるが故に壊すべからず。鏡中の影の、刃能く傷つくるにあらざるが如し。鏡に同ずるを以ての故に壊すべからざるなり。「常住一心」とは、相を会して体に同ず。)
 以一切法下。釈成同鏡所由。以於心中顕現無出入等故。即無体性。無体性故。本来平等不異真如。故云常住一心乃至真実性故。
 (「以一切法」の下は、鏡に同ずる所由を釈成す。心中に於いて顕現するに出入等なきを以ての故に、即ち体性なし。体性なきが故に、本来平等にして真如に異ならず。故に「常住一心(乃至)真実性故」という。)
【論】又一切染法所不能染。智体不動具足無漏。熏衆生故

【論】(また一切の染法の、染ずること能わざる所、智体は動ぜずして無漏を具足して、衆生を熏ずるが故に。)
 又一切染法下。釈後因義。染法不能染者。以性浄故。雖現染法。非染所汚。非直現染之時非染所染。亦乃由現染故反顕本浄。如鏡明浄能現穢物。穢物現時反顕鏡浄。豈此穢物能汚鏡耶。若不現染。則無以顕其不染也。
 (「又一切染法」の下は、後因の義を釈す。「染法不能染〈染法所不能染〉」とは、性浄を以ての故に、染法を現ずるといえども、染の汚す所にあらず、直〈ただ〉染を現ずるの時、染に染せらるるにあらざるにあらず。また乃ち染を現ずるに由るが故に反りて本浄を顕す。鏡の明浄なるは能く穢物を現じ、穢物の現ずる時に反りて鏡の浄を顕すが如し。あにこの穢物は能く鏡を汚さんや。もし染を現ぜざれば、則ち以て、その不染を顕すことなきなり。)
 智体不動者。以本無染。今無始浄。是故本覚之智未曾移動。又雖現染法。不為所染。故云不動。如鏡中像随質転変。然其鏡体未曾動也。

(「智体不動」とは、本〈もと〉染なきを以て、今、始めて浄なることなし。この故に本覚の智は未だ曾て移動せず。また染法を現ずといえども、ために染せられず。故に「不動」という。鏡の中の像は質に随いて転変するに、然るにその鏡体は未だ曾て動ぜざるが如きなり。)

 具足無漏等者。此本覚中恒沙性徳無所少也。又与衆生作内熏之因。令厭生死楽求涅槃。故勝鬘経。由有如来蔵能厭生死苦楽求涅槃也。仏性論云。自性清浄心名為道諦也。又十種仏性中業性也。

(「具足無漏」等とは、この本覚の中に、恒沙の性徳の少くる所なきなり。また衆生のために内熏の因と作り、生死を厭い涅槃を楽求せしむ。故に『勝鬘経』に、如来蔵あるに由りて能く生死の苦を厭い、涅槃を楽求するなり。『仏性論』に云く「自性清浄の心を名づけて道諦となすなり。」また十種仏性の中の業性なり。)
【論】三者法出離鏡。謂不空法。出煩悩礙智礙。離和合相。淳浄明故。
【論】(三には法出離鏡。謂く、不空の法。煩悩礙・智礙を出でて、和合の相を離れて、淳浄明なるが故に。)
 第三中。初標次釈。言法出離者。謂真如之法。出於二障離於和合故。云出離。前在纒性浄不空如来蔵。今明不空出纒離垢法身。如宝性論云。有二浄。一自性浄。以同相故。二離垢浄。以勝相故。

(第三の中に、初に標、次に釈。「法出離」というは、謂く真如の法は二障を出でて和合を離るるが故に「出離」という。前は在纒の性浄不空如来蔵。今は不空の出纒離垢の法身を明かす。『宝性論』に云うが如し。二浄あり。一に「自性浄」。同相を以ての故に。二に「離垢浄」。勝相を以ての故に。)
 不空法者。出法体也。謂即前因熏。出煩悩等者。麁細染心名煩悩礙。所依無明名智礙。離和合等者。浄心出障破業識等和合也。離和合雑相故名淳。無惑染故名浄。出無明故名明。謂大智慧光明等故云淳浄明也。
 (「不空法」とは、法体を出だすなり。謂く、即ち前の因熏なり。「出煩悩」等とは、麁細の染心を「煩悩礙」と名づく。所依の無明を「智礙」と名づく。「離和合」等とは、浄心は障を出でて業識等の和合を破すなり。和合の雑相を離るるが故に「淳」と名づけ、惑染なきが故に「浄」とづけ、無明を出づるが故に「明」と名づく。謂く、大智慧光明等の故に「淳浄明」というなり。)
【論】四者縁熏習鏡。謂依法出離故。遍照衆生之心。令修善根随念示現故。
【論】(四には縁熏習鏡。謂く、法出離に依るが故に遍く衆生の心を照らして、善根を修めしめ、念に随いて示現するが故に。)

 第四中。初標後弁。謂即彼本覚出障之時。随照物機示現万化。与彼衆生作外縁熏力。故云依法乃至示現故。問。前随染中智浄与此法出離何別。又前業用与此縁熏何別。答。前約随染故還浄説為智。即明彼智用倶就始覚説。此約自性故離障顕法体。即明此法用倶就法体説。是故前云智。此云法。前云業。此云縁也。然法智雖殊。体無差別。以始覚即本覚故。但今就義開説。故有境智不同也。  

(第四の中、初に標し、後に弁ず。謂く、即ち彼の本覚は、障を出づるの時、随いて物機を照らし万化を示現して、彼の衆生のために外縁の熏力と作るが故に「依法(乃至)示現故」という。問う。前の随染の中の智浄とこの法出離とは何の別あるや。また前の業用とこの縁熏とは何の別あるや。答う。前は随染に約す。故に還浄を説きて智となす。即ち彼の智用は倶に始覚に就きて説くことを明かす。これは自性に約するが故に、障を離れ法体を顕す。即ちこの法用は倶に法体に就きて説くことを明かす。この故に前には「智」といい、ここには「法」といい、前には「業」といい、ここには「縁」というなり。然るに法と智とは殊なるといえども、体に差別なし。始覚は即ち本覚なるを以ての故に。ただ今は義に就きて開説す。故に境智の不同あるなり。)


 ○第二不覚中有三。初明根本不覚。二生三種下明枝末不覚。三当知無明下結末帰本。又亦可初明不覚体。次明不覚相。後結相同体。前中有二。初依覚成迷。後依迷顕覚。亦則釈疑也。以彼妄依真起無別体故。還能返顕於真。即是内熏功能也。由是義故。経中説言。凡諸有心悉有仏性。以諸妄念必依於真。由真力故。令此妄念無不返流故也。初中有三。謂法喩合也。

(○第二に不覚の中に三あり。初に根本不覚を明かす。二に「生三種」の下は枝末不覚を明かす。三に「当知無明」の下は末を結して本に帰す。またまた初に不覚の体を明かし、次に不覚の相を明かし、後に相を結して体に同ずべし。前の中に二あり。初に覚に依りて迷を成じ、後に迷に依りて覚を顕す。また則ち疑を釈すなり。彼の妄は真に依りて起りて別体なきを以ての故に、還りて能く真を返顕す。即ちこれ内熏の功能なり。この義に由るが故に、『経〈涅槃経か?〉』の中に説きて言く「凡そ諸の心あるは、悉く仏性あり。」諸の妄念は必ず真に依るを以て、真力に由るが故に、この妄念をして返流せざることなからしむるが故なり。初の中に三あり。謂く、法・喩・合なり。)
【論】所言不覚義者。謂不如実知真如法一故。不覚心起而有其念。念無自相不離本覚。

【論】(言う所の不覚の義とは、謂く、実の如く真如の法は一なりと知らざるが故に、不覚の心起こりて、その念あり。念に自相なく、本覚を離れず。)
 法中。初不了如理一味故。釈根本不覚義。如迷正方也。不覚念起者。業等相念。即邪方也。念無自相下。明邪無別体不離正方也。即明不覚不離覚也。
 (法の中、初に如理一味を了せざるが故に根本不覚の義を釈す。正方に迷うが如きなり。「不覚念起〈不覚心起而有其念〉」とは、業等の相念は即ち邪方なり。「念無自相」の下は、邪は別体なく正方を離れざることを明かすなり。即ち不覚は覚を離れざることを明かすなり。)
【論】猶如迷人依方故迷。若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覚故迷。若離覚性則無不覚。
【論】(猶し迷人は方に依るが故に迷う。もし方を離るれば則ち迷あることなきが如し。衆生もまた爾り。覚に依るが故に迷い、もし覚性を離るれば則ち不覚なし。)
 喩合可知。

(喩合、知るべし。)
【論】以有不覚妄想心故。能知名義為説真覚。若離不覚之心。則無真覚自相可説。
【論】(不覚の妄想心あるを以ての故に、能く名義を知りて、ために真覚と説き、もし不覚の心を離るれば、則ち真覚の自相の説くべきなし。)
 後文中二。初明妄有起浄之功。後明真有待妄之義。良以依真之妄方能顕真。随妄之真還待妄顕故也。
 (後の文の中に二。初に妄に起浄の功あることを明かす。後に真に妄を待つの義あることを明かす。良に以て真に依るの妄は、方に能く真を顕し、妄に随うの真は還りて妄を待ちて顕るるが故なり。)


 ○第二末中略作二種釈。一約喩説意。二就識釈文。
(○第二に末の中、略して二種の釈を作す。一に喩に約して意を説き、二に識に就きて文を釈す。)
 初者本覚真如其猶浄眼。熱翳之気如根本無明。翳与眼合動彼浄眼。業識亦爾。由浄眼動故有病眼起。能見相亦爾。以有病眼向外観故。即有空華妄境界現。境界相亦爾。以有空華境故。令其起心分別好華悪華等。智相亦爾。由此分別堅執不改。相続相亦爾。由執定故於違順境取捨追遣。執取相亦爾。由取相故於上復立名字。若有相未対時。但聞名即執。計名字相亦爾。既計名取相発動身口。攀此空華造善悪業受苦楽報。長眠生死而不能脱。皆由根本無明力也。

(初は本覚真如はそれ浄眼の猶し。熱翳の気は根本無明の如し。翳と眼とは合して彼の浄眼を動ず。業識もまた爾り。浄眼の動ずるに由るが故に病眼の起こることあり。能見の相もまた爾り。病眼あるを以て外に向かいて観るが故に、即ち空華の妄境界の現ずることあり。境界の相もまた爾り。空華の境あるを以ての故に、それをして心を起こして好華悪華等を分別す。智相もまた爾り。この分別に由りて堅執して改めず。相続相もまた爾り。執定まるに由るが故に違順の境に於いて取捨追遣す。執取相もまた爾り。取相に由るが故に上に於いてまた名字を立す。もし相ありて未だ対せざる時に、ただ名を聞きて即ち執す。計名字相もまた爾り。既に名を計し相を取りて身口を発動し、この空華を攀〈ひ〉きて、善悪の業を造り、苦楽の報を受け、長く生死に眠じて脱すること能わず。皆、根本無明の力に由るなり。)
 第二釈文中有二。初無明為因生三細。後境界為縁生六麁。前中亦二。謂総標別解。
 (第二に釈文の中に二あり。初に無明を因として三細を生ず。後に境界を縁として六麁を生ず。前の中にまた二。謂く、総標と別解。)
【論】復次依不覚故。生三種相。与彼不覚相応不相離。

【論】(また次に不覚に依るが故に、三種の相を生じ、彼の不覚と相応して相い離れず。)
 標中言与彼不覚不相離者。明相不離体故。末不離本故。以依無明成妄心。依忘心起無明故也。

 (標の中に「与彼不覚不相離〈与彼不覚相応不相離〉」というは、相は体を離れざるが故に、末は本を離れざるが故を明かす。無明に依りて妄心と成り、忘心に依りて無明を起こすを以ての故なり。)
【論】云何為三。
【論】(云何が三となす。)
 前中三細即為三。各有標釈。
(前の中に三細を即ち三となす。おのおの標・釈あり。)
【論】一者無明業相。以依不覚故心動説名為業。覚則不動。動則有苦。果不離因故。

【論】(一は無明業相。不覚に依るを以ての故に、心動ずるを説きて名づけて業となす。覚すれば則ち動ぜず。動ずれば則ち苦あり。果は因を離れざるが故に。)
 初中釈内。以依不覚者。釈標中無明。即根本無明也。心動名業者。釈標中業也。

 (初の中の釈する内に「不覚に依るを以て〈以依不覚〉」とは、標の中の「無明」を釈す。即ち根本無明なり。「心動ずるを業と名づく〈心動説名為業〉」とは、標の中の「業」を釈するなり。)
 此中業有二義。一動作義。是業義故。云依不覚故心動名為業也。覚則不動者。反挙釈成。既得始覚時即無動念。是知今動只由不覚也。二為因義。是業義故。云動則有苦。如得寂静無念之時。即是涅槃妙楽。故知今動則有生死苦患。果不離因者。不動既楽。即知動必有苦。動因苦果既無別時。故云不相離也。此雖動念而極微細。縁起一相能所不分。即当梨耶自体分也。
 (この中の「業」に二義あり。一に動作の義。これ業の義なるが故に「不覚に依るが故に心動ずるを名づけて業となす〈以依不覚故心動説名為業〉」というなり。「覚すれば則ち動ぜず〈覚則不動〉」とは、反挙して釈成す。既に始覚を得る時は即ち動念なし。これ知りぬ。今の動はただ不覚に由るなり。二に因となす義。これ業の義なるが故に「動ずれば則ち苦あり〈動則有苦〉」という。寂静無念を得るの時は、即ちこれ涅槃妙楽なるが如し。故に知りぬ。今、動ずれば則ち生死の苦患あり。「果は因を離れず〈果不離因〉」とは、不動は既に楽なり。即ち知りぬ。動ずれば必ず苦あり。動因苦果、既に別時なし。故に「不相離」というなり。これ動念といえども而も極めて微細なり。縁起一相、能所分かたず。即ち梨耶の自体分に当たるなり。)
 如無相論云。問。此識何相何境界。答。相及境界不可分別。一体無異。当知此約頼耶業相義説也。下二約本識見相二分為二也。

 (『無相論』に云うが如し。問う。この識、何の相、何の境界ぞ。答う。相及び境界は分別すべからず。一体にして異なし。当に知るべし。これは頼耶の業相の義に約して説くなり。下の二は本識の見相二分に約して二となすなり。)
【論】二者能見相。以依動故能見。不動則無見。

【論】(二には能見相。動に依るを以ての故に能見あり。動ぜざれば則ち見なし。)
 第二能見相。即是転相。依前業相転成能見。故言以依動故能見。若依性浄門。則無能見。故云不動則無見。反顕能見必依動義。如是転相雖有能縁。以境界微細故猶未弁之。如摂論云。意識縁三世境及非三世境。是則可知。此識所縁境不可知故。既云所縁不可知。即約能縁以明本識転相義也。
 (第二に能見相。即ちこれ転相なり。前の業相に依りて転じて能見と成る。故に「動に依るを以ての故に能見あり〈以依動故能見〉」という。もし性浄門に依らば則ち能見なし。故に「動ぜざれば則ち見なし〈不動則無見〉」という。反りて能見は必ず動に依る義を顕す。かくの如く転相は能縁ありといえども、境界微細を以ての故に猶お未だこれを弁ぜず。『摂論〈摂大乗論釈 真諦訳〉』に云うが如し「意識は三世の境及び非三世の境を縁ず。これ則ち可知なり。」この識の所縁の境は不可知なるが故に、既に「所縁不可知〈所縁境不可知〉」という。即ち能縁に約して以て本識の転相の義を明かすなり。)
【論】三者境界相。以依能見故境界妄現。離見則無境界。

【論】(三には境界の相。能見に依るを以ての故に、境界は妄に現ず。見を離るれば則ち境界なし。)
 第三境界相。即是現相。依前転相能現境界。故云依見故境界妄現。下反挙釈可知。如楞伽云。譬如明鏡持諸色像。現識処現亦復如是。又此論下文明現識云。謂能現一切境界。猶如明鏡現於色像。現識亦爾。乃至以一切時任運而起常在前故。此等並約本識現相義説。此之現相常在本識。何況転相業相在六七識耶。此三並由根本無明動本静心成此三細。即不相応心。属頼耶位摂。
 (第三に境界の相。即ちこれ現相なり。前の転相に依りて能く境界を現ず。故に「見に依るが故に境界は妄に現ず〈以依能見故境界妄現〉」という。下は反りて挙げ釈す。知るべし。『楞伽〈楞伽阿跋多羅宝経〉』に云うが如し「譬えば明鏡の、諸の色像を持するが如し。現識処に現ずるも、またまたかくの如し。」またこの『論』の下の文に現識を明かして云く「謂く、能く一切の境界を現ず。猶し明鏡の、色像を現ずるが如し。現識また爾り。(乃至)一切時任運に起こりて常に前に在るを以ての故に。」これ等並びに本識の現相の義に約して説く。この現相は常に本識に在り。何に況んや転相・業相、六・七識に在らんや。この三は並に根本無明の、本静心を動ずるに由りてこの三細を成ず。即ち不相応心、頼耶の位に属し摂む。)

 ○自下境界為縁生六種麁相。即分別事識也。如楞伽経云。境界風所動種種諸識浪等。此之謂也。

(○自下は境界を縁となし、六種の麁相を生ず。即ち分別事識なり。『楞伽経』に云うが如し「境界の風に動ぜられ、種種の諸識の浪」等と。この謂なり。)
 問。三細属頼耶。六麁属意識。何故不説末那識耶。答。有二義意。一前既説頼耶。末那必執相応。故不別説。故瑜伽云。頼耶識起必二識相応故。又由意識縁外境時。必内依末那為染汚根方得生起。是故次説六麁。必内依末那故。亦不別説。
 (問う。三細を頼耶に属し、六麁を意識に属す。何が故ぞ、末那識を説かざるや。答う。二義の意あり。一に前に既に頼耶を説く。末那は必ず執して相応す。故に別に説かず。故に『瑜伽』に云く「頼耶識起こるに、必ず二識相応するが故に。」また意識の、外境を縁ずる時、必ず内は末那に依りて染汚根と為りて方に生起することを得るに由る。この故に次に六麁を説く。必ず内は末那に依るが故に、また別に説かず。)
 二以義不便故。略不説之。不便相者。以無明住地動本静心。令起和合成梨耶。末那既無此義。故前三細中略不説。又由外境牽起事識。末那無縁外境義。故六麁中亦略不説。亦可計内為我属前三細。計外為我所属後六麁。故略不論也。
 (二に義、便ならざるを以ての故に、略してこれを説かず。便ならざる相とは、無明住地は本静心を動ずるを以て、起きて和合して梨耶と成らしむ。末那は既にこの義なし。故に前の三細の中に略して説かず。また外境は事識を牽起するに、末那は外境を縁ずる義なきに由りて、故に六麁の中にもまた略して不説かず。また内を計して我となすは前の三細に属し、外を計して我所となすは後の六麁に属すべきが故に、略して論ぜざるなり。)
 楞伽中亦同此説。故彼経云。大慧。略説有三種識。広説有八相。何等為三。謂真識。現識。分別事識。乃至広説。経中現識。即是三細中現相也。分別事識。即是下六麁也。所以知者。彼経下釈分別事識中。乃云攀縁外境界起於事識等。故知事識非是末那。此論下文並亦同此。宜可記之。
 (『楞伽』の中、またこの説に同じ。故に彼の『経〈楞伽阿跋多羅宝経〉』に云く「大慧。略して説くに三種の識あり。広く説くに八相あり。何等をか三となす。謂く、真識、現識、分別事識」乃至、広く説く。『経』の中の「現識」は即ちこれ三細の中の現相なり。「分別事識」は即ちこれ下の六麁なり。知る所以は、彼の『経』の下に分別事識を釈する中に、乃ち云く「外の境界を攀縁して事識を起こす」等。故に知る。事識はこれ末那にあらずと。この論の下の文、並びにまたこれに同じ。宜しくこれを記すべし。)
 釈文中有二。謂総標別釈。
(釈文の中に二あり。謂く、総標・別釈。)
【論】以有境界縁故。復生六種相。云何為六。
【論】(境界の縁あるを以ての故に、また六種の相を生ず。云何が六となす。)
 別釈中六相即為六段。各先標後釈。此六之中。総有三対。謂初二為一対。謂事識中細惑。執境法為実故。六染中同是法執。地上菩薩所断。亦入下五意内摂。以有依止義故。次二為一対。謂事識中麁惑。於前実境上復起貪瞋等惑。即是下入五意後別明意識。取著転深計我我所等。六染中二乗等所断也。後二為一対。謂依惑造業。苦報長淪也。
 (別釈の中、六相を即ち六段となす。おのおの先に標、後に釈。この六の中に総じて三対あり。謂く、初の二を一対となす。謂く、事識の中の細惑の、境法を執して実となすが故に。六染の中に、同じくこれ法執、地上の菩薩の所断なり。また下の五意の内に入れて摂む。依止の義あるを以ての故に。次の二を一対となす。謂く、事識の中の麁惑。前の実境の上に於いて、また貪瞋等の惑を起こす。即ちこの下の五意の後に別して意識を明かすに入る。取著転た深くして我我所等を計す。六染の中に二乗等の所断なり。後の二を一対となす。謂く、惑に依りて業を造り、苦報に長く淪〈しず〉むなり。)
【論】一者智相。依於境界心起。分別愛与不愛故。
【論】(一には智相。境界に依りて心起こりて、愛と不愛とを分別するが故に。)
 初言智相者。謂於前現識所現相上。不了自心現故。始起慧数分別染浄執有定性。故云依於境界乃至不愛故也。
 (初に「智相」というは、謂く、前の現識所現の相の上に於いて、自心の現と了せざるが故に、始めて慧数を起こして染浄を分別し定性ありと執す。故に「依於境界(乃至)不愛故」というなり。)
【論】二者相続相。依於智故生其苦楽覚。心起念相応不断故。

【論】(二には相続相。智に依るが故にその苦楽の覚を生ず。心、念を起こし相応して断えざるが故に。)
 二相続中依於智者。明起所依。謂依前分別。愛境起楽覚受。不愛境起苦受。数数起念相続現前。此明自相続也。又能起惑潤業。引持生死。即令他相続。故下文云住持苦楽等也。故云生其乃至不断故也。
 (二に相続の中に「依於智」とは、起こる所依を明かす。謂く、前の分別に依りて、愛境に楽の覚受を起こし、不愛の境に苦受を起こして、数数、念を起こして相続して現前す。これは自の相続を明かすなり。また能く惑を起こし業を潤じて、生死を引持す。即ち他を相続ならしむ。故に下の文に「住持苦楽」等というなり。故に「生其(乃至)不断故」というなり。)
【論】三者執取相。依於相続縁念境界。住持苦楽心起著故。
【論】(三には執取相。相続に依りて境界を縁念し、苦楽を住持して、心、著を起こすが故に。)

 三執取相者。謂於前苦楽等境。不了虚無。深起取著。故下文云。即此相続識。依諸凡夫取著転深。計我我所等也。言依於相続乃至苦楽者。是前相続相也。心起著者。是此執取相也。

 (三に執取相とは、謂く、前の苦楽等の境に於いて虚無と了せず、深く取著を起こす。故に下の文に云く「即此相続識。依諸凡夫取着転深。計我我所〈即ちこの相続識、諸の凡夫は取着転た深きに依りて、我と我所とを計す〉」等。「依於相続(乃至)苦楽」というは、これ前の相続相なり。「心起著〈心、著を起こす〉」とは、これはこの執取相なり。)
【論】四者計名字相。依於妄執。分別仮名言相故。
【論】(四には計名字相。妄執に依りて分別する仮名言の相の故に。)
 四計名字相者。依前顛倒。所執相上。更立名言。是分別故。楞伽云。相名常相随。而生諸妄想。故云依於妄執等也。上来起惑。自下造業惑報。
 (四に計名字相とは、前の顛倒に依りて、所執の相の上に更に名言を立つ。これ分別するが故に。『楞伽〈楞伽阿跋多羅宝経〉』に云く「相名常に相い随いて、諸の妄想を生ず。」故に「依於妄執〈妄執に依りて〉」等というなり。上より来たは起惑。自下は造業惑報。)
【論】五者起業相。依於名字尋名。取著造種種業故。
【論】(五には起業相。名字に依りて名を尋ね、取著して種種の業を造るが故に。)
 五起業者。謂著相計名。依此麁惑。発動身口造一切業。即苦因也。
 (五に「起業」とは、謂く、相に著して名を計す。この麁惑に依りて、身口を発動して一切の業を造る。即ち苦因なり。)
【論】六者業繋苦相。以依業受報不自在故。

【論】(六には業繋苦相。業に依りて報を受けて自在ならざるを以ての故に。)
 六業繋苦者。業用已成。招累必然。循環諸道生死長縛。故云依業受果不自在也。上来末相竟。
 (六に「業繋苦」とは、業用已に成ずれば、累〈果か?〉を招くこと必ず然り。諸道に循環して生死長く縛す。故に「業に依りて果を受けて自在ならず〈依業受報不自在〉」というなり。上より来た末相竟る。)

 ○当知下第三結末帰本。
(○「当知」の下は第三に末を結して本に帰す。)
【論】当知。無明能生一切染法。
【論】(当に知るべし。無明は能く一切の染法を生ず。)
 如前三細六麁。総摂一切染法。皆因根本無明不了真如而起。故云当知無明能生一切染法也。

 (前の三細六麁の如きは、総じて一切の染法を摂す。皆、根本無明は真如を了ぜざるに因りて起こる。故に「当知無明能生一切染法〈当に知るべし。無明は能く一切の染法を生ず〉」というなり。

 ○自下釈所以。

(○自下は所以を釈す。)
【論】以一切染法皆是不覚相故。

【論】(一切の染法は皆これ不覚の相なるを以ての故に。)
 疑云。染法多種差別不同。如何根本唯一無明。釈云。染法雖多。皆是無明之気。悉不覚之差別相故。不異不覚也。故云以一切染法皆是不覚相也。上来総釈不覚義。即約染法弁心生滅竟。
 (疑いて云く。染法は多種の差別同じからず。如何ぞ根本はただ一の無明なるや。釈して云く。染法は多しといえども、皆これ無明の気。悉く不覚の差別の相なるが故に、不覚に異ならざるなり。故に「以一切染法皆是不覚相〈一切の染法は皆これ不覚の相なるを以て〉」というなり。上より来た総じて不覚の義を釈す。即ち染法に約して心生滅を弁じ竟る。)
 

○自下第三明染浄同異之相。於中有三。初総標。次列名。後広弁。

(○自下、第三に染浄同異の相を明かす。中に於いて三あり。初に総標。次に列名。後に広く弁ず。)
【論】復次覚与不覚有二種相。云何為二。一者同相。二者異相。

【論】(また次に覚と不覚と二種の相あり。云何が二となす。一には同相。二には異相。)
 ○弁中初同後異。同中三。初喩。次合。後引証。
(○弁ずる中に、初に同、後に異。同の中に三。初に喩。次に合。後に引証。)
【論】同相者。譬如種種瓦器皆同微塵性相。
【論】(同相とは、譬えば種種の瓦器は皆同じく微塵の性相なるが如し。)
 初言同相者。染浄二法同以真如為体。真如以此二法為相。故云同性相。種種瓦器譬染浄法也。皆同塵性者。器以塵為性也。塵以器為相。故云微塵性相也。   

(初に「同相」というは、染浄の二法は同じく真如を以て体となし、真如はこの二法を以て相となすが故に「同性相〈同微塵性相〉」という。「種種瓦器」は染浄の法に譬うるなり。「皆同じく塵の性〈皆同微塵性〉」とは、器は塵を以て性となし、塵は器を以て相となす。故に「微塵性相」というなり。)
【論】如是無漏無明種種業幻。皆同真如性相。
【論】(かくの如く無漏・無明の種種の業幻は皆同じく真如の性相なり。)
 合中言無漏者。始本二覚也。無明者。本末不覚也。此二皆有業用顕現而非実有。故云業幻。此等合種種器也。皆同真如性相者。以動真如門作此生滅門中染浄二法。更無別体故云性也。真如亦以此二法為相。浄相可知。其染相者。下文云。但以無明而熏習故即有染相。
 (合の中に「無漏」というは、始本の二覚なり。「無明」とは、本末の不覚なり。この二は皆、業用ありて顕現して而して実有にあらず。故に「業幻」という。これ等は種種の器に合するなり。「皆同真如性相〈皆同じく真如の性相なり〉」とは、真如門を動じてこの生滅門の中の染浄の二法と作りて、更に別体なきを以ての故に「性」というなり。真如はまたこの二法を以て相となす。浄相は知るべし。その染相とは、下の文に云く「但以無明而熏習故即有染相〈ただ無明にして熏習するを以ての故に即ち染相あり〉。」)
【論】是故脩多羅中。依於此義。説一切衆生本来常住。入於涅槃。菩提之法。非可修相。非可作相。畢竟無得。

【論】(この故に脩多羅の中に、この義に依りて、一切衆生は本り来た常住、涅槃に入ると説く。菩提の法は、修すべき相にあらず、作すべき相にあらず、畢竟無得なり。)

 引証中依於此義乃至涅槃者。依此同相門。如上本末不覚。本来即真如故。説一切衆生性自涅槃不更滅度。故経云一切衆生即涅槃相不復更滅。言菩提之法乃至無得者。依此同相門。如上始本二覚。即是真如故。諸仏菩提非修得也。又前約不覚即如故。衆生旧来入涅槃。今約覚亦即真故。諸仏菩提無新得也。
 (引証の中に「依於此義(乃至)涅槃」とは、この同相門に依りて、上の本末の不覚の如きは、本来即ち真如なるが故に、一切衆生の性は自ずから涅槃にして更に滅度せずと説く。故に『経〈維摩詰所説経〉』に云く「一切衆生は即ち涅槃の相にして、また更に滅せず。」「菩提之法(乃至)無得」というは、この同相門に依りて、上の始本の二覚の如きは、即ちこれ真如なるが故に、諸仏の菩提は修得にあらざるなり。また前は不覚即ち如なるに約するが故に、衆生は旧来、涅槃に入る。今は覚また即ち真なるに約するが故に、諸仏の菩提は新得にあらざるなり。)
 言非可修相者。望前涅槃非是了因修顕故。言非可作相者。望前菩提非是生因所作故。畢竟無得者。此之二果即性浄本有故無得也。

(「非可修相〈修すべき相にあらず〉」というは、前の涅槃は、これ了因の修顕にあらざるに望むが故に。「非可作相〈作すべき相にあらず〉」とは、前の菩提はこれ生因の所作にらざるに望むが故に。「畢竟無得」とは、この二果は即ち性浄本有なり。故に「無得」なり。)

 ○自下釈伏疑。疑云。若衆生已入本来涅槃更無新滅。即已同諸仏。何故不能現報化等色身耶。

(○自下は伏疑を釈す。疑いて云く。もし衆生は已に本来涅槃に入りて更に新滅なくんば、即ち已に諸仏に同ず。何が故ぞ報化等の色身を現ずること能わざるや。)
【論】亦無色相可見。而有見色相者。唯是随染業幻所作。非是智色不空之性。以智相無可見故。
【論】(また色相の見るべきなし。而して色相を見ることあるは、唯これ随染業幻の所作なり。これ智色不空の性にあらず。智相の見るべきことなきを以ての故に。)
 釈云。法性自体本無色相可見。如何使現色等耶。故云亦無色相可見。又疑云。若以法性非是色相可見法故不現二色者。諸仏何故現報化等種種色耶。釈云。彼見諸仏種種色等者。並是随衆生染幻。心中変異顕現。属後異相門。非此同相門中。本覚智内有此色礙不空之性也。又亦可本覚不空恒沙徳中亦無此色相故。云而見色相乃至不空之性也。何以得知彼法体中無色相者。釈云。以本覚智相非是可見之法故也。
 (釈して云く。法性の自体は本〈もと〉色相の見るべきなし。如何ぞ色等を現ぜしむるや。故に「亦無色相可見〈また色相の見べきなし〉」という。また疑いて云く。もし法性はこれ色相可見の法にあらざるを以ての故に二色を現ぜざらんは、諸仏は何が故ぞ報化等の種種の色を現ずるや。釈して云く。彼の、諸仏の種種の色等を見るは、並びにこれ衆生の染幻に随いて、心中に変異して顕現す。後の異相門に属す。これ同相門の中の本覚智の内にこの色礙不空の性あるににあらざるなり。またまた本覚不空の恒沙の徳の中に、またこの色相なきが故に、「而見色相(乃至)不空之性」というべきなり。何を以てか彼の法体の中に色相なしと知ることを得るとならば、釈して云く。本覚の智相はこれ可見の法にあらざるを以ての故なり。)


 ○異相中。先喩後合。
(○異相の中に、先に喩、後に合。)
【論】言異相者。如種種瓦器各各不同。如是無漏無明随染幻差別。性染幻差別故。
【論】(異相というは、種種の瓦器の各各同じからざるが如し。かくの如きの無漏無明随染幻の差別、性染幻の差別なるが故に。)
 合中随染幻差別者。是無漏法也。性染幻差別者。是無明法也。以彼無明迷平等理。是故其性自是差別。故下文云。如是無明自性差別故也。諸無漏法順平等性。直論其性。則無差別。但随染法差別相故。説無漏法有差別耳。如下文中対業識等差別染法故。説本覚恒沙性徳。又由対治彼染法差別故。成始覚万徳差別也。如是染浄皆是真如随縁顕現。似而無体。故通名幻也。

(合の中に「随染幻差別」とは、これ無漏法なり。「性染幻差別」とは、これ無明法なり。彼の無明は平等の理に迷うを以て、この故にその性は自ずからこれ差別す。故に下の文に云く「かくの如く無明は自性差別するが故なり。」諸の無漏法は平等の性に順ず。直ちにその性を論ずれば、則ち差別なし。ただ随染法の差別の相なるが故に無漏法に差別ありと説くのみ。下の文の中に、業識等の差別の染法に対するが故に本覚恒沙の性徳と説くが如し。また彼の染法の差別を対治するに由るが故に、始覚万徳の差別を成ずるなり。かくの如き染浄皆これ真如の、縁に随いて顕現して、似て而も体なきが故に通じて幻と名づくるなり。)
 上来染浄不同。釈心生滅竟。
(上来、染浄不同、心の生滅を釈し竟る。)

 ○自下第二釈上立義分中因縁。於中有二。初明生滅因縁義。後従無明所起識下。顕所依因縁体。前中有二。初総標。後別釈。
(○自下第二に上の立義分の中の因縁を釈す。中に於いて二あり。初に生滅因縁の義を明かす。後に「無明所起識〈依無明熏習所起識〉」より下は、所依の因縁の体を顕す。前の中に二あり。初に総標。後に別釈。)
【論】復次生滅因縁者。所謂衆生依心意意識転故。

【論】(また次に生滅の因縁とは、所謂、衆生は心に依りて意と意識と転ずるが故に。)
 標中言因縁者。梨耶心体不守自性。是生滅因。根本無明熏動心体。是生滅縁。又復無明住地諸染根本。是生滅因。外妄境界動起識浪。是生滅縁。依是二義以顕因縁。諸識生滅相集而生。故名衆生。而無別体。唯依心体故言依心。即是梨耶自相心也。能依衆生。是意意識。依心体起故云転。転者起也。
 (標の中に「因縁」というは、梨耶の心体は自性を守らず。これ生滅の因。根本無明は熏じて心体を動ず。これ生滅の縁。またまた無明住地は諸染の根本。これ生滅の因。外の妄境界は識浪を動起す。これ生滅の縁。この二義に依て以て因縁を顕す。諸識の生滅相は集りて生ず。故に「衆生」と名づく。而して別体なし。ただ心体に依るが故に「心に依る〈依心〉」という。即ちこれ梨耶の自相の心なり。能依の衆生は、これ意と意識となり。心体に依りて起こるが故に「転」という。転とは起なり。)

 ○下別釈中初問。
(○下に別釈の中に初に問。)
【論】此義云何。
【論】(この義、云何。)
 此心作衆生義云何也。
(この心の、衆生と作る義、云何となり。)

 ○下別顕示。於中有三。先釈所依心。次釈意転。後釈意識転。
(○下に別して顕示す。中に於いて三あり。先に所依の心を釈す。次に意転を釈す。後に意識転を釈す。)
【論】以依阿梨耶識。説有無明。
【論】(阿梨耶識に依るを以て、無明ありと説く。)
 初中言阿梨耶者。是上所説心。即是生滅之因。有無明者。於梨耶識二義中。此是不覚義。即生滅之縁。欲明依此因縁意意識転故。言以依等也。上総中略標其因故。但言依心。此別釈中具顕因縁故。説依心有無明也。
 (初の中に「阿梨耶」というは、これ上に説く所の「心」。即ちこれ生滅の因なり。「有無明」とは、梨耶識の二義の中に於いて、これはこれ不覚の義。即ち生滅の縁なり。この因縁に依りて意と意識と転ずることを明かさんと欲するが故に「以依」等というなり。上の総の中に略してその因を標するが故に、ただ「依心〈依阿梨耶識〉」という。この別釈の中に具に因縁を顕すが故に、心に依りて無明ありと説くなり。)
 問。上説依覚有不覚。由此不覚力故。動彼心体令起滅和合。方有梨耶業識等。何故此中説依梨耶有無明乎。
 (問う。上に、覚に依りて不覚あり、この不覚の力に由るが故に、彼の心体を動じて起滅せしめ、和合して、方に梨耶の業識等ありと説く。何が故ぞ、この中に梨耶に依りて無明ありと説くや。)
 答。此有三釈。一由梨耶有二義故。謂由無明動真心成梨耶。又即此梨耶還与彼無明為依。以不相離故。何者。謂依迷起似故。即動真起業識。迷似為実故。即依梨耶而有無明也。
 (答う。これに三釈あり。一に梨耶に二義あるに由るが故に。謂く、無明は真心を動ずるに由りて梨耶を成ず。また即ちこの梨耶は還りて彼の無明のために依となりて、相い離れざるを以ての故に。何となれば、謂く、迷に依りて似を起こすが故に。即ち真を動じて業識を起こし、似に迷いて実となすが故に。即ち梨耶に依りて無明あるなり。)
 二云。梨耶有二義。謂覚不覚。前別就其本。説依覚有不覚。今就末位論。故云依梨耶有無明也。此即二義中不覚義。在梨耶中故説依也。
 (二に云く。梨耶に二義あり。謂く、覚と不覚となり。前に別してその本に就きて、覚に依りて不覚ありと説く。今は末位に就きて論ず。故に梨耶に依りて無明ありというなり。これ即ち二義の中の不覚の義は、梨耶の中に在るが故に「依」と説くなり。)
 三云。此中正意唯取真心随縁之義。此随縁義難名目故。或就未起。説依真如有無明。或約已起。説依梨耶有無明。然此二名方尽其義。故文前後綺互言耳。
 (三に云く。この中の正意は、ただ真心随縁の義を取る。この随縁の義は名目すること難きが故に、或いは未起に就きて、真如に依りて無明ありと説き、或いは已起に約して、梨耶に依りて無明ありと説く。然るにこの二名は方にその義を尽くすが故に文の前後に綺えて互いに言うのみ。)

 ○不覚下次釈意転。於中有三。初略明。次広弁。後結帰心。初中即明五種識相。
(○「不覚」の下は次に意転を釈す。中に於いて三あり。初に略して明かし、次に広く弁じ、後に心に結帰す。初の中、即ち五種の識相を明かす。)
【論】不覚而起。能見能現能取境界。起念相続。故説為意。
【論】(不覚にして起こり、能見、能現、能く境界を取りて、念を起こして相続するが故に説きて意となす。)
 不覚而起者。所依心体由無明熏挙体而動。即是業識也。前依梨耶有無明。即依似起迷。今熏浄心成梨耶。即依迷起似。此二義一時。説有前後耳。言能見者。即彼心体転成能見。是転識也。能現者。即彼心体復成能現。即是現識。能取境界者。能取現識所現境界。是為智識。起念相続者。於所取境起諸麁念。是相続識。依此五義次第転成依止。依止此義而生意識等。故説為意。故摂論云。意以能生依止為義也。
 (「不覚而起〈不覚にして起こり〉」とは、所依の心体は無明の熏に由りて挙体にして動ず。即ちこれ業識なり。前の梨耶に依りて無明ありとは、即ち似に依りて迷を起こす。今は浄心を熏じて梨耶を成ず。即ち迷に依りて似を起こす。この二義は一時にして、説に前後あるのみ。「能見」というは、即ち彼の心体の、転じて能見と成る。これ転識なり。「能現」とは、即ち彼の心体はまた能現を成ず。即ちこれ現識なり。「能取境界〈能く境界を取りて〉」とは、能く現識所現の境界を取る。これを智識となす。「起念相続〈念を起こして相続す〉」とは、所取の境に於いて諸の麁念を起こす。これ相続識なり。この五義に依りて次第に依止を転成す。この義に依止して意識等を生ず。「故説為意〈故に説きて意となす〉。」故に『摂論』に云わく「意は能生依止を以て義となすなり。」)

 ○此意下第二広釈。於中二。初標次釈。釈中五意即為五段。各有標釈。

(○「此意」の下は第二に広釈。中に於いて二。初に標、次に釈。釈の中に五意を即ち五段となす。おのおの標・釈あり。)
【論】此意復有五種名。云何為五。一者名為業識。謂無明力不覚心動故。
【論】(この意にまた五種の名あり。云何が五となす。一には名づけて業識となす。謂く、無明の力、不覚にして心動ずるが故に。)
 初中言無明力者。謂根本無明。即所依縁也。明心不自起。起必由縁。不覚心動者。正明起相釈成業義。起動義是業義故。
 (初の中に「無明力」というは、謂く根本無明。即ち所依の縁なり。心は自ら起きず、起きることは必ず縁に由ることを明かす。「不覚心動〈不覚にして心動ず〉」とは、正しく起相を明かし、業の義を釈成す。起動の義はこれ業の義なるが故に。)
【論】二者名為転識。依於動心能見相故。
【論】(二には名づけて転識となす。動心に依りて能見の相あるが故に。)
 第二転識中。言依動能見者。依前業識之動。転成能見之相。転識有二。若就無明所動転成能見者。在本識中。如其境界所動転成能見者。在事識。此中転相。約初義也。

 (第二に転識の中、「依動能見〈依於動心能見相〉とは、前の業識の動に依りて、転じて能見の相を成ず。転識に二あり。もし無明に動ぜられ転じて能見と成るに就けば、本識の中に在り。その境界に動ぜられ転じて能見を成ずるが如きは、事識に在り。この中の転相は初の義に約するなり。)
【論】三者名為現識。所謂能現一切境界。猶如明鏡現於色像。現識亦爾。随其五塵対至。即現無有前後。以一切時任運而起。常在前故。

【論】(三には名づけて現識となす。所謂る能く一切の境界を現ず。猶し明鏡の、色像を現ずるが如し。現識また爾り。その五塵に随いて対至すれば、即ち現じて前後あることなし。一切の時に任運にして起こりて、常に前〈さき〉に在るを以ての故に。)
 第三現識中。初法次喩後合。言能現一切境界者。依前転識之見。起此能現之功。故現妄境界。以其心体与無明合熏習力故。現於種種無辺境界故也。

 (第三に現識に中、初に法、次に喩、後に合。「能現一切境界〈能く一切の境界を現ず〉」というは、前の転識の見に依りて、この能現の功を起こす。故に妄境界を現ず。その心体と無明と合する熏習力を以ての故に、種種無辺の境界を現ずるが故なり。)
 合中言五塵者。且挙麁顕以合色像。而実通現一切境界。故上法説中云一切也。若依瑜伽論中。則現五根種子及器世間等。今此論中偏就五塵者。以此約牽起分別事識義故。作是説也。
 (合の中に「五塵」というは、且く麁顕を挙げて以て色像に合す。而して実に通じて一切の境界を現ず。故に上の法説の中に「一切」というなり。もし『瑜伽論』の中に依らば、則ち五根種子及び器世間等を現ず。今この論の中に偏に五塵に就くは、これ分別事識を牽起する義に約するを以ての故に、この説を作すなり。)
 任運而起者。非如六七識有時断滅。故簡異彼也。常在前者。為諸法本故。明此識在諸法之先。以是諸法所依故。此揀異末那識也。
 (「任運而起〈任運にして起こり〉」とは、六七識の、時ありて断滅するが如きにはあらざるが故に彼に簡異するなり。「常在前〈常に前〈さき〉に在る〉」とは、諸法の本となるが故に、この識は諸法の先に在ることを明かす。これ諸法の所依なるを以ての故に、これ末那識に揀異するなり。)
【論】四者名為智識。謂分別染浄法故。
【論】(四には名づけて智識となす。謂く、染浄の法を分別するが故に。)
 第四智識者。是事識内細分別。謂不了前心所現境故。起染浄微細分別。故云智也。

(第四に智識とはこれ事識の内の細分別。謂く、前の心所現の境を了せざるが故に。染浄微細の分別を起こすが故に「智」というなり。)
【論】五者名為相続識。以念相応不断故。住持過去無量世等善悪之業令不失故。復能成熟現在未来苦楽等報無差違故。能令現在已経之事忽然而念未来之事不覚妄慮。

【論】(五には名づけて相続識となす。念相応して断ぜざるを以ての故に、過去無量世等の善悪の業を住持して失せざらしむるが故に、また能く現在未来の苦楽等の報を成熟して差違することなきが故に、能く現在已経の事を忽然として念じ、未来の事を不覚に妄慮せしむ。)
 第五相続者。亦是事識中細分。前六相中相続相也。
(第五に相続とは、またこれ事識の中の細分。前の六相の中の相続相なり。)
 以念相応不断者。法執相応得長相続。此約自体不断釈相続義也。
(「以念相応不断〈念相応して断たざるを以て〉」とは、法執相応して長く相続することを得。これ自体不断に約して相続の義を釈するなり。)
 住持已下。有釈。一但属此相続識。以約其功能釈相続義故。以此識能起潤業煩悩。能引持過去無明所発諸行善悪業種。令成堪任成果之有。若無惑潤。業種焦亡。故云住持乃至不失也。此則引生令熟。又復能起潤生煩悩。能使已熟之業感報相応。故言成熟無差違也。如是三世因果流転連持不絶。功由意識。以是義故名相続識。次言念已逕乃至妄慮者。顕此識用麁分別相不同智識微細分別故也。二又総弁前五意功能。初住持業果。是前三細功能属梨耶。後念彼已未之境。是後二功能。属事識細分也。

 (「住持」已下は、有るが釈す。一にただこの相続識に属す。その功能に約して相続の義を釈するを以ての故に。この識は能く潤業の煩悩を起して、能く過去の無明所発の諸行善悪の業種を引持するを以て、成果〈来果〉の有に堪任することを成ぜしむ。もし惑の潤ずることなければ、業種は焦亡す。故に「住持(乃至)不失〈過去無量世等の善悪の業を住持して失せざらしむ〉」というなり。これ則ち生を引きて熟せしめ、またまた能く潤生の煩悩を起こし、能く已熟の業をして感報相応せしむ。故に「成熟無差違〈能く現在未来の苦楽等の報を成熟して差違することなき〉」というなり。かくの如く三世の因果は流転連持して絶えざる功は意識に由る。この義を以ての故に相続識と名づく。次に「念已逕(乃至)妄慮〈現在已経の事を忽然として念じ、未来の事を不覚に妄慮せしむ〉」とは、この識用の麁分別の相は智識の微細の分別に同じからざることを顕すが故なり。二にまた総じて前の五意の功能を弁ず。初の業果を住持するは、これ前の三細の功能、梨耶に属す。後の彼の已未の境を念ずるは、これ後の二功、能く事識細分に属するなり。)

 ○第三結依心中有二。先正結属心。後此義云何下釈疑広弁。初中先順結三界。後返結六塵。
(○第三に依心を結する中に二あり。先に正しく結して心に属す。後に「此義云何」の下は疑を釈して広く弁ず。初の中に先に順じて三界を結し、後に返して六塵を結す。)
【論】是故三界虚偽唯心所作。離心則無六塵境界。
【論】(この故に三界は虚偽、唯心の所作。心を離れて則ち六塵の境界なし。)
 前中言是故者。是前一心随無明動作五種識故。故説三界唯心転也。此心随熏現似曰虚。隠其虚体詐現実状曰偽。虚偽之状雖有種種。然窮其因縁。唯心作也。十地経中亦同此説。離彼現識則無塵境。反験六塵唯是一心。故云離心則無等也。
 (前の中に「是故」というは、これ前の一心は無明に随いて動じて五種の識と作るが故に、故に「三界は唯心の転〈三界虚偽唯心所作〉」と説くなり。この心は熏に随いて似を現ずるを「虚」という。しの虚体を隠して詐りて実状を現ずるを「偽」という。虚偽の状は種種ありといえども、然るにその因縁を窮むるに、唯心の作なり。『十地経』の中、またこの説に同じ。彼の現識を離れて則ち塵境なし。反して六塵は唯これ一心なることを験ず。故に「離心則無〈心を離れて則ち六塵の境界なし〉」等というなり。)

 ○釈疑中有三。初問。次答。後当知下結也。
(○疑を釈する中に三あり。初に問、次に答、後に「当知」の下は結す。)
【論】此義云何。
【論】(この義、云何。)
 問意云。現有塵境。云何唯心。
(問の意に云く。現に塵境あり。云何ぞ唯心なる。)
【論】以一切法皆従心起妄念而生。一切分別即分別自心。心不見心無相可得。
【論】(一切の法は皆、心より起こり、妄念より生ずるを以て、一切の分別は即ち自心を分別す。心の、心を見ざれば、相の得べきことなし。)
 答云。以一切法皆是此心随熏所起。更無異体故説唯心。疑云。何以此心作諸法耶。釈云。由妄念熏故生起諸法。故云妄念而生也。又亦可疑云。法既唯心。我何不見。而我所見唯是異心。釈云。言異心者。是汝妄念分別而作。故云妄念生也。即分別自心者。既境唯現識。無外実法。是故分別分別自心。即顕無塵唯識義也。
 (答えて云く。一切の法は皆これこの心の、熏に随いて起こる所にして、更に異体なきを以ての故に「唯心」と説く。疑いて云く。何を以てこの心は諸法と作るや。釈して云く。妄念の熏に由るが故に諸法を生起す。故に「妄念而生〈妄念より生ず〉」というなり。またまた疑いて云うべし。法は既に唯心ならば、我は何ぞ見ずして、而して我が所見は唯これ心に異なる。釈して云く。異心というは、これ汝が妄念分別より作す。故に「妄念より生ず」というなり。「即分別自心〈即ち自心を分別す〉」とは、既に境はただ現識。外の実法なし。この故に分別は自心を分別す。即ち無塵唯識の義を顕すなり。)
 心不見心者。既塵無相。識不自縁。是故無塵。識不生也。摂論云。無有少法能取少法故也。能所皆寂故。云無相可得也。中辺論偈云。由依唯識故。境無体義成。以塵無有故。本識則不生。此中分別自心者。即依唯識以遣於塵。与中辺論上半偈同。心不見心者。依無塵以遣識。与中辺下半偈同。
 (「心不見心〈心の、心を見ざれば〉」とは、既に塵は無相なれば、識は自ら縁ぜず。この故に塵なければ、識は生ぜざるなり。『摂論〈摂大乗論本 玄奘訳〉』に云く「少法の能く少法を取ることあることなきが故に。」能所みな寂なるが故に「無相可得〈相の得べきことなし〉」というなり。『中辺論〈中辺分別論〉』の偈に云く「唯識に依るに由るが故に、境無体の義成ず。塵はあることなきを以ての故に、本識は則ち生ぜず。」この中の「分別自心〈自心を分別す〉」とは、即ち唯識に依りて以て塵を遣る。『中辺論』の上の半偈と同じ。「心不見心〈心の、心を見ざれば〉」とは、塵なきに依りて以て識を遣る。『中辺』の下の半偈に同じ。)
 此等約行説。故遣依他性也。故瑜伽論云。問。諸修観行者見遍計所執無相時。当言入何等性。答。入円成実性。問。入円成実性時。当言遣何等性。答。遣依他起性。以此当知。唯識観成。則無有識。楞伽亦云。無心之心量。我説為心量。此之謂也。若依此論。無明動真如。成生滅縁起。無明風滅。識浪即止。唯是真如平等平等也。

 (これ等は行に約して説くが故に依他性を遣るなり。故に『瑜伽論』に云く「問う。諸の修観行とは、遍計所執の無相を見る時、当に何等の性に入るというべきや。答う。円成実性に入る。問う。円成実性に入る時。当に何等の性を遣るというべきや。答う。依他起性を遣る。」これを以て当に知るべし。唯識観成すれば、則ち識あることなし。『楞伽』にまた云く「心の心量なきを、我、説きて心量となす。」この謂なり。もしこの論に依らば、無明は真如を動じて、生滅縁起を成ず。無明の風滅すれば、識浪は即ち止む。唯これ真如平等平等なり。)

 ○結中有四。初即結相属心。二是故下挙喩以説。三唯心下一句。釈外伏疑。四以心生下反験唯心。顕境成妄。
(○結の中に四あり。初に即ち相を結して心に属す。二に「是故」の下は喩を挙げて以て説く。三に「唯心」の下の一句は、外の伏疑を釈す。四に「以心生」の下は唯心を反験す。境の、妄を成ずることを顕す。)

【論】当知。世間一切境界。皆依衆生無明妄心。而得住持。
【論】(当に知るべし。世間一切の境界は、みな衆生の無明妄心に依りて住持することを得。)
 前中無明者。根本無明也。妄心者。業識等也。以世間一切諸境依此而成。謂即現識等也。若無明未尽已還。此識住持境界不息。故云住持等也。
 (前の中の「無明」とは根本無明なり。「妄心」とは業識等なり。世間一切の諸境はこれに依りて成ずるを以て、謂く、即ち現識等なり。もし無明未だ尽きざる已還は、この識住持して境界は息まず。故に「住持」等というなり。)
【論】是故一切法。如鏡中像無体可得。唯心虚妄。以心生則種種法生。心滅則種種法滅故。

【論】(この故に一切法は鏡中の像の、体の得べきことなきが如し。唯心の虚妄なり。心生ずれば則ち種種の法生じ、心滅すれば則ち種種の法滅するを以ての故に。)
 喩中言無体可得者。示此境界離心之外無体可得也。又亦即是心故復無体也。如鏡外無影。鏡内復無体故也。釈疑中疑云。既其無体。何以宛然顕現。釈云。此並是真心之上虚妄顕現。何処有体而可得耶。
 (喩の中に「無体可得〈体の得べきことなき〉」というは、この境界は心を離れて外に体の得べきことなきことを示すなり。またまた即ちこの心の故にまた体なきなり。鏡の外に影なきが如し。鏡の内にもまた体なきが故なり。釈疑の中に疑いて云く。既にそれ体なくんば、何を以て宛然として顕現するや。釈して云く。これ並びにこの真心の上に虚妄顕現す。何の処にか体として得べきものあらんや。)
 反験中。疑云。何以得知心上顕現。釈云。以心生則種種法生等故知也。此中以無明力不覚心動。乃至能現一切境等故。言心生則種種法生也。此則心随熏動。故云生也。若無明滅境界随滅。諸識分別皆滅無余故。言心滅則種種法滅。此則心源還浄。故云滅也。既心随不覚妄現諸境。即験諸境唯心無体也。
 (反験の中、疑いて云く。何を以て知ることを得る、心上に顕現すと。釈して云く。「心生則種種法生〈心生ずれば則ち種種の法生ず〉」等を以ての故に知るなり。この中に無明の力を以て不覚の心動じ、乃至、能く一切の境を現ずる等の故に「心生則種種法生〈心生ずれば則ち種種の法生じ〉」というなり。これ則ち心は熏に随いて動ず。故に「生」というなり。もし無明滅すれば、境界は随いて滅す。諸識分別みな滅して余なきが故に「心滅則種種法滅〈心滅すれば則ち種種法の滅す〉」という。これ則ち心源還浄の故に「滅」というなり。既に心は不覚に随いて妄に諸境を現ず。即ち験ず、諸境は唯心にして体なきなり。)
 問。上説生滅結過属無明。此文弁因縁。云何結属心。答。前以無明動彼静心令其生滅故。此生滅功在無明。今此因縁和合道理。以成弁諸法。無性義顕。不住義彰故。就和合結属於心也。
 (問う。上に生滅を説きて過を結して無明に属す。この文は因縁を弁ずるに、云何ぞ結して心に属するや。答う。前は無明の、彼の静心を動じてそれをして生滅せしむるを以ての故に、この生滅の功は無明に在り。今はこれ因縁和合の道理。諸法を成弁し、無性の義顕れ、不住の義彰るるを以ての故に、和合に就きて結して心に属するなり。)

 ○釈意識中。初標後釈。釈中有五。初約人弁麁。二計我下出其惑体。三随事下明執所依縁。四名為下制立其名。五此識下明識起所依。
(○意識を釈する中に、初に標、後に釈。釈の中に五あり。初に人に約して麁を弁じ、二に「計我」の下はその惑体を出だし、三に「随事」の下は執所依縁を明かし、四に「名為」の下はその名を制立し、五に「此識」の下は識の起こる所依を明かす。)
【論】復次言意識者。即此相続識。依諸凡夫取著転深。計我我所。種種妄執。随事攀縁。分別六塵。名為意識。亦名分離識。又復説名分別事識。此識依見愛煩悩増長義故。
【論】(また次に「意識」というは、即ちこれ相続識。諸の凡夫は取著転た深きに依りて、我我所を計し、種種に妄に執し、事に随いて攀縁し、六塵を分別するを名づけて意識となす。また分離識と名づけ、またまた説きて分別事識と名づく。この識は見愛煩悩に依りて増長する義の故に。)


 初中言即此相続識等者。明此生起識麁細雖殊。同是一識更無別体故。即指前第五識也。但前就細分法執分別相応依止義門。則説為意。此中約其能起見愛麁惑相応従前起門。説名為意識。謂意之識故名意識也。依諸凡夫者簡非聖人意識也。以前智識及相続識。通在二乗及地前等菩薩所起故。故今約凡顕其麁也。
 (初の中に「即此相続識」等とは、これ生起の識は麁細殊なるといえども、同じくこれ一識にして更に別体なきことを明かすが故に。即ち前の第五の識を指すなり。ただ前は細分の法執の分別相応依止の義門に就きて、則ち説きて意となす。この中には、その能起の見愛麁惑相応の従前起門に約して、説きて名づけて意識となす。謂く、意の識なるが故に意識と名づくるなり。「依諸凡夫」とは、聖人の意識を簡非するなり。前の智識及び相続識は、通じて二乗及び地前等の菩薩の起こす所に在るを以ての故に、故に今は凡に約してその麁を顕すなり。)
 取著転深者。以無対治故。追著妄境転極麁現。故云深也。惑体中。非直心外計境為麁。亦復於身計我。於塵計所。或執即蘊。或執離蘊等。種種妄計。此顕計我之相。所依縁者。謂但攀於倒境之事。不了正理故。云随事等也。
 (「取著転深〈取著転た深き〉」とは、対治なきを以ての故に、妄境を追著して、転た極めて麁現す。故に「深」というなり。惑体の中に、直〈ただ〉心外に境を計して麁となすにあらず。またまた身に於いて我を計し、塵に於いて所を計す。或いは即蘊を執し、或いは離蘊を執する等、種種に妄計す。これ計我の相を顕す。所依縁とは、謂く、ただ倒境の事を攀〈ひ〉きて、正理を了せざるが故に「随事」等というなり。)
 名意識者。此論就一意識義。故不別出五識。但説意識分別六塵。亦名分離者。依於六根別取六塵。故云分離也。又能分別去来内外種種事相故。復説為分別事識也。
 (「名意識〈名為意識〉」とは、この論は一の意識の義に就くが故に別に五識を出ださず、ただ意識は六塵を分別すと説く。「亦名分離」とは、六根に依りて別に六塵を取るが故に「分離」というなり。また能く去来内外の種種の事相を分別するが故に、また説きて「分別事識」となすなり。)

 下明識起所依者。見謂見一処住地。即見道惑也。愛謂欲色有三愛。即修道惑也。以此見修二惑熏於本識。令変生此分別事識。故云増長也。
 (下に識の起こる所依を明かすは、「見」は謂く見一処住地、即ち見道の惑なり。「愛」は謂く欲色有の三愛は即ち修道の惑なり。この見修の二惑は本識に熏じて、変じてこの分別事識を生ぜしむる以ての故に「増長」というなり。)
 上六麁中。執取計名及起業相。並相従入此意識中。及後六染中執相応染。亦入此摂。上来広明生滅因縁義竟。
 (上の六麁の中の執取・計名及び起業相と、並びに相い従いてこの意識の中に入る。及び後の六染の中の執相応染もまたこれに入りて摂む。上来、広く生滅因縁の義を明かし竟る。)



                                大乗起信論義記 巻中末 終

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