大乗起信論 原文及び書き下し

馬鳴菩薩造 真諦三蔵訳

帰命尽十方 最勝業遍知 色無礙自在 救世大悲者
及彼身体相 法性真如海 無量功徳蔵 如実修行等
為欲令衆生 除疑捨邪執 起大乗正信 仏種不断故。

論曰。有法能起摩訶衍信根。是故応説。
(論に曰わく。法あり、能く摩訶衍の信根を起こす。この故に応に説くべし。)

説有五分。云何為五。一者因縁分。二者立義分。三者解釈分。四者修行信心分。五者勧修利益分。
(説に五分あり。云何が五となす。一には因縁分。二には立義分。三には解釈分。四には修行信心分。五には勧修利益分。)

初説因縁分。問曰。有何因縁而造此論。答曰。是因縁有八種。云何為八。一者因縁総相。所謂為令衆生離一切苦。得究竟楽。非求世間。名利恭敬故。二者為欲解釈如来根本之義令諸衆生正解不謬故。三者為令善根成熟衆生。於摩訶衍法堪任不退信故。四者為令善根微少衆生修習信心故。五者為示方便消悪業障善護其心遠離癡慢出邪網故。六者為示修習止観。対治凡夫二乗心過故。七者為示専念方便生於仏前必定不退信心故。八者為示利益勧修行故。有如是等因縁。所以造論。
(初に因縁分を説かん。問いて曰わく。何の因縁ありてこの論を造るや。答えて曰わく。この因縁に八種あり。云何が八となす。一には因縁総相。所謂、衆生に一切の苦を離れ、究竟楽を得しめんためなり。世間の名利恭敬を求むるにはあらざるが故に。二には如来の根本の義を解釈して、諸の衆生をして正しく解して謬らざらしめんと欲するがための故に。三には、善根成熟の衆生をして摩訶衍の法に於いて堪任不退信ならしめんための故に。四には善根微少の衆生をして信心を修習せしめんための故に。五には方便を示し悪業障を消し善くその心を護り癡慢を遠離し邪網を出でしめんための故に。六には止観を修習することを示し、凡夫二乗の心過を対治せんための故に。七には専念の方便を示して、仏前に生ぜじめ必定して不退信心ならんための故に。八には利益を示し、修行を勧むるための故に、かくの如き等の因縁あり。所以に論を造る。)

問曰。修多羅中具有此法何須重説。答曰。修多羅中雖有此法以衆生根行不等受解縁別。所謂如来在世衆生利根能説之人色心業勝円音一演異類等解。則不須論。若如来滅後或有衆生能以自力広聞而取解者。或有衆生亦以自力少聞而多解者。或有衆生無自心力因於広論而得解者。自有衆生復以広論文多為煩心楽総持少文而摂多義能取解者。如是此論為欲総摂如来広大深法無辺義故。応説此論。
(問いて曰わく。修多羅の中に具にこの法あり。何ぞ重ねて説くことを須る。答えて曰わく。修多羅の中にこの法ありといえども、衆生の根行等しからず、受解縁別なるを以てなり。所謂、如来の在世に衆生は利根、能説の人は色心業勝れ、円音一たび演べ異類等しく解すれば、則ち論を須いず。もしは如来の滅後に或いは衆生の、能く自力広聞を以て解を取る者あり。或いは衆生の、また自力少聞を以て多く解する者あり。或いは衆生の、自の心力なく、広論に因りて解を得る者あり。自ずから衆生のまた広論の文多きを煩となすを以て、心に総持の文少くして多義を摂するを楽〈ねが〉いて、能く解を取る者あり。かくの如く、この論は如来の広大深法の無辺の義を総摂せんと欲するための故に、応にこの論を説くべし。)

已説因縁分。次説立義分。摩訶衍者総説有二種。云何為二。一者法二者義。所言法者謂衆生心。是心則摂一切世間出世間法。依於此心顕示摩訶衍義。何以故是心真如相即示摩訶衍体故。是心生滅因縁相能示摩訶衍自体相用故。所言義者則有三種。云何為三。一者体。謂一切法真如平等不増減故。二者相大謂如来蔵具足無量性功徳故。三者用大能生一切世間出世間善因果故。一切諸仏本所乗故。一切菩薩皆乗此法到如来地故。
(已に因縁分を説く。次に立義分を説かん。摩訶衍は総じて説くに二種あり。云何が二となす。一には法、二には義。言う所の法とは、謂く。衆生心なり。この心則ち一切の世間・出世間の法を摂す。この心に依りて摩訶衍の義を顕示す。何を以ての故に。この心真如の相は即ち摩訶衍の体を示すが故に。この心生滅因縁の相は能く摩訶衍の自体相用を示すが故に。言う所の義とは、則ち三種あり。云何が三となす。一には体。謂く。一切の法は真如平等にして増減せざるが故に。二には「相大」。謂く。如来蔵は無量の性功徳を具足するが故に。三には用大。能く一切世間・出世間の善の因果を生ずるが故に。一切の諸仏の本所乗の故に。一切の菩薩は皆この法に乗じて如来地に到るが故に。)

已説立義分。次説解釈分。解釈有三種。云何為三。一者顕示正義。二者対治邪執。三者分別発趣道相。
(已に立義分を説く。次に解釈分を説かん。解釈に三種あり。云何が三となす。一は正義を顕示す。二は邪執を対治す。三は発趣道相を分別す。)

顕示正義者。依一心法有二種門。云何為二。一者心真如門。二者心生滅門。是二種門皆各総摂一切法。此義云何。以是二門不相離故。
(正義を顕示すとは、一心法に依りて二種の門あり。云何が二となす。一には心真如門。二には心生滅門。この二種の門は皆おのおの一切の法を総摂す。この義、云何。この二門は相い離れざるを以ての故に。)

心真如者。即是一法界大総相。法門体。所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別。若離心念。則無一切境界之相。是故一切法。従本已来離言説相。離名字相。離心縁相。畢竟平等無有変異不可破壊。唯是一心故名真如。以一切言説仮名無実。但随妄念不可得故。言真如者亦無有相。謂言説之極。因言遣言。此真如体無有可遣。以一切法悉皆真故。亦無可立。以一切法皆同如故。当知。一切法不可説不可念故。名為真如。
(心真如とは、即ちこれ一法界の大総相、法門の体。いわゆる心性は不生不滅なり。一切の諸法は、ただ妄念に依りて差別あり。もし心念を離るれば、則ち一切の境界の相なし。この故に一切法は本より已来た言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れて、畢竟平等にして変異あることなく、破壊すべからず。ただこれ一心なり。故に真如と名づく。一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随りて不可得なるを以ての故に。真如というは、また相あることなし。謂く。言説の極。言に因りて言を遣る。この真如の体は遣るべきあることなし。一切の法は悉くみな真なるを以ての故に。また立すべきなし。一切の法はみな同じく如なるを以ての故に。当に知るべし。一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。)

問曰。若如是義者。諸衆生等云何随順而能得入。答曰。若知一切法雖説無有能説可説。雖念亦無能念可念。是名随順。若離於念名為得入。
(問いて曰く。もしかくの如き義ならば、諸の衆生等は、云何が随順し而して能く得入せん。答えて曰く。もし一切法は説くといえども能説の説くべきことあることなく、念ずといえども、また能念の念ずべきことなしと知る、これを随順と名づく。もし念を離るを名づけて得入となす。)

復次真如者。依言説分別有二種義。云何為二。一者如実空。以能究竟顕実故。二者如実不空。以有自体具足無漏性功徳故。
(また次に真如とは、言説に依りて分別するに二種の義あり。云何が二となす。一には如実空。能く究竟して実を顕すを以ての故に。二には如実不空。自体あり、無漏の性功徳を具足するを以ての故に。)

所言空者。従本已来一切染法不相応故。謂離一切法差別之相。以無虚妄心念故。当知。真如自性。非有相非無相。非非有相非非無相。非有無倶相。非一相非異相。非非一相非非異相。非一異倶相。乃至総説。依一切衆生以有妄心。念念分別皆不相応。故説為空。若離妄心。実無可空故。
(言の所の空とは、本より已来た一切の染法は相応せざるが故に。謂く。一切法の差別の相を離る。虚妄の心念なきを以ての故に。当に知るべし。真如の自性は、有相にあらず、無相にあらず、非有相にあらず、非無相にあらず、有無倶相にあらず。一相にあらず、異相にあらず。非一相にあらず、非異相にあらず。一異倶相にあらず。乃至総じて説く。一切衆生は妄心あるを以て、念念分別するに依りて、みな相応せず。故に説きて空となす。もし妄心を離るれば、実に空ずべきことなきが故に。)

所言不空者。已顕法体空無妄故。即是真心常恒不変浄法満足。則名不空。亦無有相可取。以離念境界唯証相応故。
(言う所の不空とは、已に法体空にして妄なきことを顕すが故に。即ちこれ真心常なり恒なり不変なり浄法満足す。則ち不空と名づく。また相の取るべきものあることなし。離念の境界は、ただ証と相応するを以ての故に。)

心生滅者。依如来蔵故有生滅心。所謂不生不滅与生滅和合非一非異。名為阿梨耶識。此識有二種義。能摂一切法。生一切法。云何為二。一者覚義。二者不覚義。
(心生滅とは、如来蔵に依るが故に生滅の心あり。謂う所の不生不滅と生滅と和合して一にあらず、異にあらず。名づけて阿梨耶識となす。この識に二種の義あり。よく一切の法を摂し、一切の法を生ず。云何が二となす。一には覚の義。二には不覚の義。)

所言覚義者。謂心体離念。離念相者等虚空界無所不遍。法界一相即是如来平等法身。依此法身説名本覚。何以故。本覚義者対始覚義説。以始覚者即同本覚。
(言う所の覚の義とは、謂く、心体は念を離る。離念の相は虚空界に等しく遍ぜざる所なく、法界一相、即ちこれ如来の平等法身。この法身に依りて説きて本覚と名づく。何を以ての故に。本覚の義は始覚の義に対して説く。始覚は即ち本覚に同ずるを以てなり。)

始覚義者。依本覚故而有不覚。依不覚故説有始覚。又以覚心源故名究竟覚。不覚心源故非究竟覚。此義云何。如凡夫人覚知前念起悪故。能止後念令其不起。雖復名覚即是不覚故。如二乗観智初発意菩薩等。覚於念異念無異相。以捨麁分別執著相故名相似覚。如法身菩薩等。覚於念住念無住相。以離分別麁念相故名随分覚。如菩薩地尽。満足方便一念相応覚心初起。心無初相。以遠離微細念故。得見心性心即常住。名究竟覚。是故修多羅説。若有衆生能観無念者。則為向仏智故。
(始覚の義とは、本覚に依るが故に不覚あり。不覚に依るが故に始覚ありと説く。また心源を覚するを以ての故に究竟覚と名づく。心源を覚さざるが故に究竟覚にあらず。この義云何。凡夫の人の如き、前念の起悪を覚知するが故に、能く後念を止めて、それをして起こさざらしむ。また覚と名づくといえども即ちこれ不覚なるが故に。二乗の観智、初発意の菩薩等の如きは、念異を覚して、念に異相なし。麁分別の執著の相を捨するを以ての故に相似覚と名づく。法身の菩薩等の如きは、念住を覚して、念に住相なし。分別麁念の相を離るるを以ての故に随分覚と名づく。菩薩地尽の如きは、方便を満足して一念相応し心の初起を覚して、心に初相なし。微細の念を遠離するを以ての故に、心性を見ることを得て、心は即ち常住なるを究竟覚と名づく。この故に修多羅に、もし衆生ありて能く無念を観ずる者は、則ち仏に向かう智となすと説くが故に。)

又心起者。無有初相可知。而言知初相者即謂無念。是故一切衆生不名為覚。以従本来念念相続未曽離念故。説無始無明。若得無念者。則知心相生住異滅。以無念等故。而実無有始覚之異。以四相倶時而有。皆無自立。本来平等同一覚故。
(また心起とは、初相の知るべきことあることなし。而して初相を知るというは、即ち謂く無念なり。この故に一切衆生は名づけて覚となさず。本より来た念念相続して、未だ曽て念を離れざるを以ての故に、無始の無明と説く。もし無念を得れば、則ち心相の生住異滅を知る。無念等しきを以ての故に。而して実に始覚の異あることなし。四相倶時にして有り。みな自立なく、本来平等にして同一覚なるを以ての故に。)

復次本覚随染分別。生二種相。与彼本覚不相捨離。云何為二。一者智浄相。二者不思議業相。
(また次に本覚随染を分別するに二種の相を生ず。彼の本覚と相い捨離せず。云何が二となす。一には智浄相。二には不思議業相。)

智浄相者。謂依法力熏習。如実修行。満足方便故。破和合識相。滅相続心相。顕現法身。智淳浄故。此義云何。以一切心識之相皆是無明。無明之相不離覚性。非可壊非不可壊。如大海水因風波動。水相風相不相捨離。而水非動性。若風止滅動相則滅。湿性不壊故。如是衆生自性清浄心。因無明風動。心与無明倶無形相不相捨離。而心非動性。若無明滅相続則滅。智性不壊故。
(智浄相とは、謂く法力熏習に依りて、如実修行し、方便を満足するが故に。和合の識の相を破し、相続の心の相を滅して、法身を顕現し、智淳浄なるが故に。この義いかん。一切の心識の相は皆これ無明にして、無明の相は覚性を離れざるを以て、壊すべきにあらず、壊すべからざるにあらず。大海の水は風に因りて波動し、水相と風相と相い捨離せず。而して水は動性にあらず。もし風止滅すれば、動相は則ち滅し、湿性は壊せざるが如きなるが故に。かくの如く衆生の自性清浄の心は無明の風に因りて動ず。心と無明と倶に形相なくして相い捨離せず。而して心は動性にあらざれば、もし無明滅すれば相続則ち滅し、智性は壊せざるが故に。)

不思議業相者。以依智浄相。能作一切勝妙境界。所謂無量功徳之相常無断絶。随衆生根自然相応。種種而現得利益故。
(不思議業相とは、智浄相に依るを以て、能く一切の勝妙境界を作す。所謂、無量功徳の相は常に断絶し。衆生の根に随いて自然に相応し、種種に現じて利益を得しむるが故に。)

復次覚体相者。有四種大義。与虚空等。猶如浄鏡。云何為四。一者如実空鏡。遠離一切心鏡界相。無法可現。非覚照義故。二者因熏習鏡。謂如実不空。一切世間境界。悉於中現不出不入不失不壊。常住一心。以一切法即真実性故。又一切染法所不能染。智体不動具足無漏。熏衆生故。三者法出離鏡。謂不空法。出煩悩礙智礙。離和合相。淳浄明故。四者縁熏習鏡。謂依法出離故。遍照衆生之心。令修善根随念示現故。
(また次に覚の体相とは、四種の大義あり。虚空と等しく猶し浄鏡の如し。云何が四となす。一は如実空鏡。一切の心鏡界の相を遠離して、法の現ずべきなし。覚照の義にあらざるが故に。二には因熏習鏡。謂く、如実不空。一切世間の境界は、悉く中に於いて現じて、不出、不入、不失、不壊にして、常住一心なり。一切の法は即ち真実の性なるを以ての故に。また一切の染法の、染ずること能わざる所、智体は動ぜずして無漏を具足して、衆生を熏ずるが故に。三には法出離鏡。謂く、不空の法。煩悩礙・智礙を出でて、和合の相を離れて、淳浄明なるが故に。四には縁熏習鏡。謂く、法出離に依るが故に遍く衆生の心を照らして、善根を修めしめ、念に随いて示現するが故に。)

所言不覚義者。謂不如実知真如法一故。不覚心起而有其念。念無自相不離本覚。猶如迷人依方故迷。若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覚故迷。若離覚性則無不覚。以有不覚妄想心故。能知名義為説真覚。若離不覚之心。則無真覚自相可説。
(言う所の不覚の義とは、謂く、実の如く真如の法は一なりと知らざるが故に、不覚の心起こりて、その念あり。念に自相なく、本覚を離れず。猶し迷人は方に依るが故に迷う。もし方を離るれば則ち迷あることなきが如し。衆生もまた爾り。覚に依るが故に迷い、もし覚性を離るれば則ち不覚なし。不覚の妄想心あるを以ての故に、能く名義を知りて、ために真覚と説き、もし不覚の心を離るれば、則ち真覚の自相の説くべきなし。)

復次依不覚故。生三種相。与彼不覚相応不相離。云何為三。一者無明業相。以依不覚故心動説名為業。覚則不動。動則有苦。果不離因故。二者能見相。以依動故能見。不動則無見。三者境界相。以依能見故境界妄現。離見則無境界。
(また次に不覚に依るが故に、三種の相を生じ、彼の不覚と相応して相い離れず。云何が三となす。一は無明業相。不覚に依るを以ての故に、心動ずるを説きて名づけて業となす。覚すれば則ち動ぜず。動ずれば則ち苦あり。果は因を離れざるが故に。二には能見相。動に依るを以ての故に能見あり。動ぜざれば則ち見なし。三には境界の相。能見に依るを以ての故に、境界は妄に現ず。見を離るれば則ち境界なし。)

以有境界縁故。復生六種相。云何為六。一者智相。依於境界心起。分別愛与不愛故。二者相続相。依於智故生其苦楽覚。心起念相応不断故。三者執取相。依於相続縁念境界。住持苦楽心起著故。四者計名字相。依於妄執。分別仮名言相故。五者起業相。依於名字尋名。取著造種種業故。六者業繋苦相。以依業受報不自在故。当知。無明能生一切染法。以一切染法皆是不覚相故。
(境界の縁あるを以ての故に、また六種の相を生ず。云何が六となす。一には智相。境界に依りて心起こりて、愛と不愛とを分別するが故に。二には相続相。智に依るが故にその苦楽の覚を生ず。心、念を起こし相応して断えざるが故に。三には執取相。相続に依りて境界を縁念し、苦楽を住持して、心、著を起こすが故に。四には計名字相。妄執に依りて分別する仮名言の相の故に。五には起業相。名字に依りて名を尋ね、取著して種種の業を造るが故に。六には業繋苦相。業に依りて報を受けて自在ならざるを以ての故に。当に知るべし。無明は能く一切の染法を生ず。一切の染法は皆これ不覚の相なるを以ての故に。)

復次覚与不覚有二種相。云何為二。一者同相。二者異相。同相者。譬如種種瓦器皆同微塵性相。如是無漏無明種種業幻。皆同真如性相。是故修多羅中。依於此義。説一切衆生本来常住。入於涅槃。菩提之法。非可修相。非可作相。畢竟無得。亦無色相可見。而有見色相者。唯是随染業幻所作。非是智色不空之性。以智相無可見故。言異相者。如種種瓦器各各不同。如是無漏無明随染幻差別。性染幻差別故。
(また次に覚と不覚と二種の相あり。云何が二となす。一には同相。二には異相。同相とは、譬えば種種の瓦器は皆同じく微塵の性相なるが如し。かくの如く無漏・無明の種種の業幻は皆同じく真如の性相なり。この故に修多羅の中に、この義に依りて、一切衆生は本り来た常住、涅槃に入ると説く。菩提の法は、修すべき相にあらず、作すべき相にあらず、畢竟無得なり。また色相の見るべきなし。而して色相を見ることあるは、唯これ随染業幻の所作なり。これ智色不空の性にあらず。智相の見るべきことなきを以ての故に。異相というは、種種の瓦器の各各同じからざるが如し。かくの如きの無漏無明随染幻の差別、性染幻の差別なるが故に。)

復次生滅因縁者。所謂衆生依心意意識転故。此義云何。以依阿梨耶識。説有無明。不覚而起。能見能現能取境界。起念相続。故説為意。
(また次に生滅の因縁とは、所謂、衆生は心に依りて意と意識と転ずるが故に。この義、云何。阿梨耶識に依るを以て、無明ありと説く。不覚にして起こり、能見、能現、能く境界を取りて、念を起こして相続するが故に説きて意となす。)

此意復有五種名。云何為五。一者名為業識。謂無明力不覚心動故。二者名為転識。依於動心能見相故。三者名為現識。所謂能現一切境界。猶如明鏡現於色像。現識亦爾。随其五塵対至。即現無有前後。以一切時任運而起。常在前故。四者名為智識。謂分別染浄法故。五者名為相続識。以念相応不断故。住持過去無量世等善悪之業令不失故。復能成熟現在未来苦楽等報無差違故。能令現在已経之事忽然而念未来之事不覚妄慮。
(この意にまた五種の名あり。云何が五となす。一には名づけて業識となす。謂く、無明の力、不覚にして心動ずるが故に。二には名づけて転識となす。動心に依りて能見の相あるが故に。三には名づけて現識となす。所謂る能く一切の境界を現ず。猶し明鏡の、色像を現ずるが如し。現識また爾り。その五塵に随いて対至すれば、即ち現じて前後あることなし。一切の時に任運にして起こりて、常に前〈さき〉に在るを以ての故に。四には名づけて智識となす。謂く、染浄の法を分別するが故に。五には名づけて相続識となす。念相応して断ぜざるを以ての故に、過去無量世等の善悪の業を住持して失せざらしむるが故に、また能く現在未来の苦楽等の報を成熟して差違することなきが故に、能く現在已経の事を忽然として念じ、未来の事を不覚に妄慮せしむ。)

是故三界虚偽唯心所作。離心則無六塵境界。此義云何。以一切法皆従心起妄念而生。一切分別即分別自心。心不見心無相可得。当知。世間一切境界。皆依衆生無明妄心。而得住持。是故一切法。如鏡中像無体可得。唯心虚妄。以心生則種種法生。心滅則種種法滅故。
(この故に三界は虚偽、唯心の所作。心を離れて則ち六塵の境界なし。この義、云何。一切の法は皆、心より起こり、妄念より生ずるを以て、一切の分別は即ち自心を分別す。心の、心を見ざれば、相の得べきことなし。当に知るべし。世間一切の境界は、みな衆生の無明妄心に依りて住持することを得。この故に一切法は鏡中の像の、体の得べきことなきが如し。唯心の虚妄なり。心生ずれば則ち種種の法生じ、心滅すれば則ち種種の法滅するを以ての故に。)

復次言意識者。即此相続識。依諸凡夫取著転深。計我我所。種種妄執。随事攀縁。分別六塵。名為意識。亦名分離識。又復説名分別事識。此識依見愛煩悩増長義故。
(また次に「意識」というは、即ちこれ相続識。諸の凡夫は取著転た深きに依りて、我我所を計し、種種に妄に執し、事に随いて攀縁し、六塵を分別するを名づけて意識となす。また分離識と名づけ、またまた説きて分別事識と名づく。この識は見愛煩悩に依りて増長する義の故に。)

依無明熏習所起識者。非凡夫能知。亦非二乗智慧所覚。謂依菩薩。従初正信発心観察。若証法身得少分知。乃至。菩薩究竟地不能尽知。唯仏窮了。何以故。是心従本已来自性清浄。而有無明。為無明所染有其染心。雖有染心而常恒不変。是故此義唯仏能知。
(無明の熏習に依りて起こす所の識とは。凡夫の能く知るにあらず、また二乗の智慧の覚する所にあらず。謂く。菩薩に依るに、初の正信より発心観察し、もし法身を証すれば少分知ることを得。乃至。菩薩究竟地に尽く知ること能わず。ただ仏のみ窮了す。何を以ての故に。この心は本より已来た自性清浄なり。而して無明あり。無明の為に染せられて、その染心あり。染心ありといえども、而も常恒不変なり。この故にこの義は唯仏のみ能く知る。)

所謂心性常無念故。名為不変。以不達一法界故。心不相応。忽然念起。名為無明。
(所謂、心性は常に念なきが故に、名づけて不変となす。一法界に達せざるを以ての故に心に相応せず、忽然として念起こるを名づけて無明となす。)

染心者。有六種。云何為六。一者執相応染。依二乗解脱及信相応地遠離故。二者不断相応染。依信相応地修学方便。漸漸能捨。得浄心地究竟離故。三者分別智相応染。依具戒地漸離。乃至。無相方便地究竟離故。四者現色不相応染。依色自在地能離故。五者能見心不相応染。依心自在地能離故。六者根本業不相応染。依菩薩尽地得入如来地能離故。
(染心とは、六種あり。云何が六となす。一には執相応染。二乗の解脱と及び信相応地とに依りて遠離するが故に。二には不断相応染。信相応地に修学する方便に依りて、漸漸に能く捨して、浄心地を得て究竟して離するが故に。三には分別智相応染。具戒地に依りて漸く離する、乃至、無相方便地に究竟して離するが故に。四には現色不相応染。色自在地に依りて能く離るが故に。五には能見心不相応染。心自在地に依りて能く離るが故に。六には根本業不相応染。菩薩尽くる地、如来地に入ることを得るに依りて能く離るるが故に。)

不了一法界義者。従信相応地。観察学断入浄心地。随分得離。乃至。如来地能究竟離故。言相応義者。謂心念法異。依染浄差別。而知相縁相同故。不相応義者。謂即心不覚常無別異。不同知相縁相故。又染心義者。名為煩悩礙。能障真如根本智故。無明義者。名為智礙。能障世間自然業智故。此義云何。以依染心能見能現。妄取境界。違平等性故。以一切法常静無有起相。無明不覚妄与法違故。不能得随順世間一切境界。種種知故。
(一法界を了せざる義とは、信相応地より、観察学断して浄心地に入り、分に随いて離るることを得、乃至、如来地に能く究竟して離るるが故に。相応の義というは、謂く、心と念法と異なり。染浄の差別に依りて、而も知相と縁相と同じきが故に。不相応の義とは、謂く、心に即する不覚は常に別異なし。知相・縁相を同じくせざるが故に。また染心の義とは、名づけて煩悩礙となす。能く真如根本智を障うるが故に。無明の義とは、名づけて智礙となす。能く世間の自然業智を障うるが故に。この義、云何。染心に依りて能見能現あり、妄に境界を取りて、平等性に違するを以ての故に。一切の法は常に静にして起相あることなく、無明の不覚は妄に法と違するを以ての故に、世間一切の境界に随順することを得て種種に知ること能わざるが故に。)

復次分別生滅相者。有二種。云何為二。一者麁与心相応故。二者細与心不相応故。又麁中之麁。凡夫境界。麁中之細。及細中之麁。菩薩境界。細中之細。是仏境界。此二種生滅。依於無明熏習而有。所謂依因依縁。依因者不覚義故。依縁者妄作境界義故。若因滅則縁滅。因滅故。不相応心滅。縁滅故。相応心滅。
(また次に生滅の相を分別するは、二種あり。云何が二となすや。一には麁と心と相応するが故に。二には細と心と相応せざるが故に。また麁の中の麁は凡夫の境界なり。麁の中の細と、及び細の中の麁とは、菩薩の境界なり。細の中の細は、これ仏の境界なり。この二種の生滅は無明熏習に依りて有り。所謂、因に依り、縁に依る。因に依るとは不覚の義の故に。縁に依るとは妄に境界を作す義の故に。もし因滅すれば則ち縁滅す。因滅するが故に不相応の心滅す。縁滅するが故に相応の心滅す。)

問曰。若心滅者。云何相続。若相続者。云何説究竟滅。答曰。所言滅者。唯心相滅。非心体滅。如風依水而有動相。若水滅者則風相断絶。無所依止。以水不滅風相相続。唯風滅故動相随滅。非是水滅。無明亦爾。依心体而動。若心体滅者。則衆生断絶無所依止。以体不滅心得相続。唯痴滅故。心相随滅。非心智滅。
(問いて曰く。もし心滅せば、云何ぞ相続せん。もし相続せば、云何ぞ究竟滅と説かん。答えて曰く。言の所の滅とは、ただ心相の滅なり。心体の滅にあらず。風の水に依りて動相あるが如し。もし水滅せば、則ち風相断絶して、依止する所なからん。水滅せざるを以て風相相続す。ただ風滅するが故に動相随いて滅す。これ水滅するにあらず。無明また爾り。心体に依りて動ず。もし心体滅せば、則ち衆生断絶して依止する所なし。体は滅せざるを以て心は相続することを得。ただ痴滅するが故に、心相随いて滅す。心智の滅するにあらず。)

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復次有四種法熏習義故。染法浄法起不断絶。云何為四。一者浄法名為真如。二者一切染因名為無明。三者妄心名為業識。四者妄境界所謂六塵。
(また次に四種の法熏習の義あるが故に、染法・浄法起こりて断絶せず。云何が四となす。一には浄法を名づけて真如となす。二には一切の染因を名づけて無明となす。三には妄心を名づけて業識となす。四には妄境界、所謂六塵なり。)

熏習義者。如世間衣服実無於香。若人以香而熏習故。則有香気。此亦如是真如浄法。実無於染。但以無明而熏習故。則有染相。無明染法実無浄業。但以真如而熏習故。則有浄用。
(熏習の義とは、世間の衣服は実に香なし。もし人、香を以て熏習するが故に、則ち香気あるが如し。これまたかくの如く真如の浄法は実に染なし。ただ無明を以て熏習するが故に、則ち染相あり。無明染法は実に浄業なし。ただ真如を以て熏習するが故に則ち浄用あり。)

云何熏習起染法不断。所謂以依真如法故。有於無明。以有無明染法因故。即熏習真如。以熏習故則有妄心。以有妄心即熏習無明。不了真如法故。不覚念起現妄境界。以有妄境界染法縁故。即熏習妄心。令其念著造種種業。受於一切身心等苦。此妄境界熏習義。則有二種。云何為二。一者増長念熏習。二者増長取熏習。妄心熏習義有二種。云何為二。一者業識根本熏習。能受阿羅漢辟支仏一切菩薩。生滅苦故。二者増長分別事識熏習。能受凡夫。業繋苦故。無明熏習義有二種。云何為二。一者根本熏習。以能成就業識義故。二者所起見愛熏習。以能成就分別事識義故。
(云何が熏習して染法を起こして断えざる。所謂、真如の法に依るを以ての故に無明あり。無明染法の因あるを以ての故に即ち真如に熏習す。熏習を以ての故に則ち妄心あり。妄心あるを以て即ち無明に熏習す。真如の法を了せざるが故に、不覚の念起こりて妄境界を現ず。妄境界染法の縁あるを以ての故に、即ち妄心に熏習して、それをして念著し種種の業を造りて、一切の身心等の苦を受けしむ。この妄境界熏習の義に則ち二種あり。云何が二となす。一には増長念熏習。二には増長取熏習なり。妄心熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には業識根本熏習。能く阿羅漢・辟支仏・一切の菩薩をして生滅の苦を受けしむるが故に。二には増長分別事識熏習。能く凡夫に業繋の苦を受けしむるが故に。無明熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には根本熏習。能く業識を成就する義を以ての故に。二には所起見愛熏習。能く分別事識を成就する義を以ての故に。)

云何熏習起浄法不断。所謂以有真如法。故能熏習無明。以熏習因縁力故。則令妄心厭生死苦。楽求涅槃。以此妄心有厭求因縁故。即熏習真如。自信己性。知心妄動無前境界。修遠離法。以如実知無前境界故。種種方便起随順行。不取不念。乃至久遠熏習力故。無明則滅。以無明滅故。心無有起。以無起故。境界随滅。以因縁倶滅故。心相皆尽。名得涅槃成自然業。
(云何が熏習は浄法を起こして断ぜざる。所謂、真如の法あるを以ての故に、能く無明に熏習す。熏習の因縁力を以ての故に、則ち妄心をして生死の苦を厭い、涅槃を楽求せしむ。この妄心に厭求の因縁あるを以ての故に、即ち真如に熏習す。自ら己性を信じ、心は妄に動じて前の境界なしと知りて、遠離の法を修す。実の如く前の境界なしと知るを以ての故に、種種の方便、随順の行を起こして、取らず、念ぜず、乃至、久遠熏習力の故に。無明則ち滅す。無明滅するを以ての故に、心起こることあることなし。起こることなきを以ての故に、境界随いて滅す。因縁倶に滅するを以ての故に、心相皆尽くるを、涅槃を得て自然の業を成ずと名づく。)

妄心熏習義。有二種。云何為二。一者分別事識熏習。依諸凡夫二乗人等。厭生死苦。随力所能。以漸趣向無上道故。二者意熏習。謂諸菩薩発心勇猛。速趣涅槃故。
(妄心熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には分別事識熏習。諸の凡夫二乗の人等に依りて、生死の苦を厭い、力の所能に随いて、漸く無上道に趣向するを以ての故に。二には意熏習。謂く、諸の菩薩は発心勇猛にして速やかに涅槃に趣くが故に。)

真如熏習義有二種。云何為二。一者自体相熏習。二者用熏習。自体相熏習者。従無始世来具無漏法。備有不思議業。作境界之性。依此二義。恒常熏習。以有熏習力故。能令衆生厭生死苦。楽求涅槃。自信己身有真如法。発心修行。
(真如熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には自体相熏習、二には用熏習なり。自体相熏習とは、無始世より来た無漏の法を具す。備に不思議の業ありて、境界の性と作る。この二義に依りて、恒常に熏習す。熏習力あるを以ての故に、能く衆生をして生死の苦を厭い、涅槃を楽求し、自ら己身に真如の法ありと信じて、発心修行せしむ。)

問曰。若如是義者。一切衆生悉有真如。等皆熏習。云何有信無信無量前後差別。皆応一時自知有真如法。勤修方便等入涅槃。
(問いて曰く。もしかくの如き義ならば、一切衆生は悉く真如ありて、等しくみな熏習せん。云何が信と無信と無量前後の差別ある。みな応に一時に自ら真如の法ありと知りて、勤修方便して等しく涅槃に入るべし。)

答曰。真如本一。而有無量無辺無明。従本已来自性差別厚薄不同故。過恒沙等上煩悩。依無明起差別。我見愛染煩悩。依無明起差別。如是一切煩悩。依於無明所起前後無量差別。唯如来能知故。
(答えて曰く。真如は本〈もと〉一。而して無量無辺の無明ありて、本より已来た自性差別し、厚薄同じからざるが故に。恒沙等の上に過ぐる煩悩〈過恒沙等の上の煩悩〉は、無明に依りて起こる差別あり。我見愛染の煩悩は無明に依りて起こる差別あり。かくの如き一切の煩悩は、無明に依りて起こる所の前後無量の差別あり。ただ如来のみ能く知るが故に。)

又諸仏法有因有縁。因縁具足乃得成弁。如木中火性是火正因。若無人知不仮方便。能自焼木無有是処。衆生亦爾。雖有正因熏習之力。若不遇諸仏菩薩善知識等以之為縁。能自断煩悩入涅槃者。則無是処。若雖有外縁之力。而内浄法未有熏習力者。亦不能究竟厭生死苦楽求涅槃。若因縁具足者。所謂自有熏習之力。又為諸仏菩薩等慈悲願護故。能起厭苦之心。信有涅槃。修習善根。以修善根成熟故。則値諸仏菩薩。示教利喜。乃能進趣。向涅槃道。
(また諸仏の法は因あり縁あり。因縁具足して乃ち成弁することを得。木中の火性はこれ火の正因。もし人の知ることなく、方便を仮らずして、能く自ら木を焼くこと、この処あることなきが如し。衆生もまた爾り。正因熏習の力ありといえども、もし諸仏菩薩善知識等に遇いて、これを以て縁となさざれば、能く自ら煩悩を断じて涅槃に入ることは、則ちこの処なし。もし有外縁の力ありといえども、内の浄法未だ熏習の力あらざる者は、また究竟して生死の苦を厭い、涅槃を楽求すること能わず。もし因縁具足するは、所謂、自ら熏習の力あり、また諸仏菩薩等のために慈悲願護せらるるが故に。能く厭苦の心を起こし、涅槃あることを信じ、善根を修習す。善根を修すること成熟するを以ての故に、則ち諸仏菩薩に値い、示教利喜して、乃ち能く進趣して、涅槃の道に向かう。)

用熏習者。即是衆生外縁之力。如是外縁有無量義。略説二種。云何為二。一者差別縁。二者平等縁。
(用熏習とは、即ちこれ衆生外縁の力。かくの如きの外縁に無量の義あり。略して説くに二種あり。云何が二となす。一には差別縁、二には平等縁なり。)

差別縁者。此人依於諸仏菩薩等。従初発意始求道時。乃至得仏。於中若見若念。或為眷属父母諸親。或為給使。或為知友。或為冤家。或起四摂。乃至一切所作。無量行縁。以起大悲熏習之力。能令衆生増長善根。若見若聞得利益故。此縁有二種。云何為二。一者近縁。速得度故。二者遠縁。久遠得度故。是近遠二縁分別。復有二種。云何為二。一者増長行縁。二者受道縁。
(差別縁とは、この人は諸仏菩薩等に依りて、初発意に始めて道を求むる時より、乃至、仏を得るまで、中に於いて、もしは見、もしは念ず。或いは眷属父母諸親となり、或いは給使となり、或いは知友となり、或いは冤家となり、或いは四摂を起こす。乃至、一切の所作、無量の行縁、大悲を起こす熏習の力を以て、能く衆生をして善根を増長し、もしは見、もしは聞き、利益を得しむるが故に。この縁に二種あり。云何が二となす。一には近縁。速かに度することを得るが故に。二には遠縁。久遠に度することを得るが故に。この近遠の二縁を分別するに、また二種あり。云何が二となす。一には増長行縁、二には受道縁なり。)

平等縁者。一切諸仏菩薩。皆願度脱一切衆生。自然熏習。常恒不捨。以同体智力故。随応見聞而現作業。所謂衆生。依於三昧。乃得平等見諸仏故。
(平等縁とは、一切の諸仏菩薩は、みな一切衆生を度脱せんと願い、自然に熏習して、常恒に捨てず。同体の智力を以ての故に、見聞に応ずるに随いて作業を現ず。所謂衆生は、三昧に依りて、乃ち平等に諸仏を見ることを得るが故に。)

此体用熏習分別。復有二種。云何為二。一者未相応。謂凡夫二乗初発意菩薩等。以意意識熏習。依信力故。而能修行。二者已相応。謂法身菩薩得無分別心。与諸仏自体相応。得自在業。与諸仏智用相応。唯依法力自然修行。熏習真如滅無明故。未得無分別心与体相応故。未得自在業修行与用相応故。
(この体用熏習を分別するに、また二種あり。云何が二となす。一には未相応。謂く、凡夫二乗初発意の菩薩等は意と意識との熏習を以て、信力に依るが故に、而して能く修行す。未だ無分別心は体と相応することを得ざるが故に。未だ自在業の修行は用と相応することを得ざるが故に。二には已相応。謂く、法身の菩薩は無分別心を得て、諸仏の自体と相応し、自在の業を得て、諸仏の智用と相応す。ただ法力に依りて自然に修行して、真如に熏習して無明を滅するが故に。)

復次染法。従無始已来熏習不断。乃至得仏後則有断。浄法熏習。則無有断尽於未来。此義云何。以真如法常熏習故。妄心則滅。法身顕現起用熏習。故無有断。
(また次に、染法は無始より已来た熏習して断ぜず。乃至、仏を得て後に則ち断ずることあり。浄法熏習は、則ち断ずることあることなく、未来を尽くす。この義云何。真如の法は常に熏習するを以ての故に、妄心則ち滅すれば、法身顕現して、用熏習を起こす故に断ずることあることなし。)

復次真如自体相者。一切凡夫声聞縁覚菩薩諸仏。無有増減。非前際生。非後際滅。畢竟常恒。従本已来自性満足一切功徳。所謂自体有大智慧光明義故。遍照法界義故。真実識知義故。自性清浄心義故。常楽我浄義故。清涼不変自在義故。具足如是過於恒沙不離不断不異不思議仏法。乃至満足無有所少義故。名為如来蔵。亦名如来法身。
(また次に真如の自体相とは、一切の凡夫・声聞・縁覚・菩薩・諸仏は、増減あることなく、前際に生ずるにあらず、後際に滅するにあらず、畢竟して常恒なり。本より已来た自性に一切の功徳を満足す。所謂、自体に大智慧光明の義あるが故に、遍照法界の義の故に、真実識知の義の故に、自性清浄心の義の故に、常楽我浄の義の故に、清涼不変自在の義の故に。かくの如きの恒沙を過ぐる不離・不断・不異・不思議の仏法を具足し、乃至、満足して少くる所あることなき義の故に、名づけて如来蔵となし、また如来法身と名づく。)

問曰。上説真如其体平等離一切相。云何復説体有如是種種功徳。答曰。雖実有此諸功徳義。而無差別之相。等同一味唯一真如。此義云何。以無分別離分別相。是故無二。復以何義得説差別。以依業識生滅相示。此云何示。以一切法本来唯心。実無於念而有妄心。不覚起念。見諸境界故説無明。心性不起。即是大智慧光明義故。若心起見則有不見之相。心性離見。即是遍照法界義故。若心有動。非真識知。無有自性。非常非楽非我非浄。熱悩衰変則不自在。乃至。具有過恒沙等妄染之義。対此義故。心性無動。則有過恒沙等諸浄功徳相義示現。若心有起更見前法可念者。則有所少。如是浄法無量功徳。即是一心。更無所念。是故満足名為法身如来之蔵。
(問いて曰く。上に真如はその体平等にして一切の相を離ると説く。云何ぞまた体にかくの如きの種種の功徳ありと説くや。答えて曰く。実にこの諸の功徳の義ありといえども、而も差別の相なし。等同一味にして唯だ一真如なり。この義云何ん。無分別は分別の相を離るるを以て、この故に無二なり。また何の義を以て差別を説くことを得る。業識生滅相に依りて示すを以て。これ云何が示す。一切の法は本来た唯心にして、実に念なきも而も妄心あり。覚せず念を起こして、諸の境界を見るを以ての故に無明と説く。心性は起こらず。即ちこれ大智慧光明の義の故に。もし心の、見を起こさば、則ち不見の相あり。心性は見を離る。即ちこれ遍照法界の義の故に。もし心に動あるは、真の識知にあらず。自性あることなし。常にあらず、楽にあらず、我にあらず、浄にあらず、熱悩衰変して則ち自在ならず。乃至、具に過恒沙等の妄染の義あり。この義に対するが故に、心性に動なければ、則ち過恒沙等の諸の浄功徳の相の義の示現することあり。もし心の起こることありて更に前法の念ずべきことを見る者は、則ち少くる所あり。かくの如く浄法の無量の功徳は即ちこれ一心にして、更に念ずる所なし。この故に満足するを名づけて法身如来の蔵となす。)

復次真如用者。所謂諸仏如来。本在因地発大慈悲。修諸波羅蜜。摂化衆生。立大誓願。尽欲度脱等衆生界。亦不限劫数。尽於未来。以取一切衆生如己身故。而亦不取衆生相。此以何義。謂如実知一切衆生及与己身。真如平等無別異故。以有如是大方便智。除滅無明。見本法身。自然而有不思議業種種之用。即与真如等遍一切処。又亦無有用相可得。何以故。謂諸仏如来唯是法身。智相之身。第一義諦。無有世諦境界。離於施作。但随衆生見聞得益。故説為用。
(また次に真如の用とは、謂う所の諸仏如来は本〈もと〉因地に在りて、大慈悲を発し、諸波羅蜜を修し、衆生を摂化す。大誓願を立て、尽く等しく衆生界を度脱せんと欲す。また劫数を限らず、未来を尽くす。一切衆生を取りて己身の如くなるを以ての故に。また衆生の相を取らず。これ何の義を以てぞ。謂く、如実に一切衆生と及び己身と、真如平等にして別異なきことを知るが故に。かくの如き大方便智あるを以て。無明を除滅して本法身を見る。自然に不思議の業、種種の用あり。即ち真如と等しく一切処に遍ず。またまた用相の得べきことあることなし。何を以ての故に。謂く、諸仏如来は唯これ法身、智相の身、第一義諦。世諦の境界あることなし。施作を離れ、ただ衆生の見聞に随いて益を得るが故に説きて用となす。)

此用有二種。云何為二。一者依分別事識。凡夫二乗心所見者。名為応身。以不知転識現故。見従外来。取色分斉。不能尽知故。二者依於業識。謂諸菩薩。従初発意。乃至菩薩究竟地心所見者。名為報身。身有無量色。色有無量相。相有無量好。所住依果亦有無量種種荘厳。随所示現。即無有辺。不可窮尽。離分斉相。随其所応。常能住持不毀不失。如是功徳。皆因諸波羅蜜等無漏行熏。及不思議熏之所成就。具足無量楽相故。説為報身。
(この用に二種あり。云何が二となす。一には分別事識に依りて、凡夫二乗の心の見る所の者を名づけて応身となす。転識の現ずるを知らざるを以ての故に、外より来たると見て、色の分斉を取りて、尽く知ること能わざるが故に。二には業識に依る。謂く、諸の菩薩、初発意より、乃至、菩薩究竟地の心の所見をば、名づけて報身となす。身に無量の色あり。色に無量の相あり。相に無量の好あり。所住の依果は、また無量種種の荘厳あり。示現する所に随いて、即ち辺あることなく、窮尽すべからず。分斉の相を離る。その所応に随いて、常に能く住持して毀せず失せず。かくの如きの功徳は、みな諸の波羅蜜等の無漏の行熏、及び不思議熏の成就する所に因りて、無量の楽相を具足するが故に、説きて報身となす。)

又為凡夫所見者。是其麁色。随於六道各見不同。種種異類非受楽相。故説為応身。復次初発意菩薩等所見者。以深信真如法故。少分而見。知彼色相荘厳等事無来無去。離於分斉。唯依心現不離真如。然此菩薩。猶自分別以未入法身位故。若得浄心所見微妙其用転勝。乃至菩薩地尽。見之究竟。若離業識則無見相。以諸仏法身。無有彼此色相迭相見故。
(また凡夫のために所見の者は、これその麁色。六道に随いて各見ること同じからず。種種の異類、受楽の相にあらず。故に説いて応身となす。また次に初発意の菩薩等の所見は、深く真如の法を信ずるを以ての故に、少分に見る。彼の色相荘厳等の事は、来なく去く、分斉を離る。ただ心に依りて現じて真如を離れずと知る。然るにこの菩薩は、なお自分別して未だ法身の位に入らざるを以ての故に。もし浄心を得れば、所見微妙にして、その用は転た勝なり。乃至、菩薩地尽にこれを見ること究竟す。もし業識を離るれば則ち見相なし。諸仏の法身は、彼此の色相迭いに相い見ることあることなきを以ての故に。)

問曰。若諸仏法身離於色相者。云何能現色相。答曰。即此法身是色体故。能現於色。所謂従本已来色心不二。以色性即智故。色体無形説名智身。以智性即色故。説名法身遍一切処。所現之色無有分斉。随心能示十方世界。無量菩薩。無量報身。無量荘厳。各各差別皆無分斉。而不相妨。此非心識分別能知。以真如自在用義故。
(問いて曰く。もし諸仏の法身は色相を離れては、云何ぞ能く色相を現ずる。答えて曰く。即ちこの法身はこれ色の体なるが故に、能く色を現ず。謂う所、本より已来た色心不二なり。色性即ち智なるを以ての故に、色体無形なるを説きて智身と名づく。智性は即ち色なるを以ての故に、説きて法身は一切処に遍ずと名づく。所現の色に分斉あることなし。心に随いて能く十方世界の無量の菩薩、無量の報身、無量の荘厳、各各差別して皆、分斉なくして、而も相い妨げざることを示す。これ心識分別の能く知るにあらず。真如自在の用の義なるを以ての故に。)

復次顕示従生滅門即入真如門。所謂推求五陰色之与心。六塵境界畢竟無念。以心無形相。十方求之終不可得。如人迷故。謂東為西。方実不転。衆生亦爾。無明迷故。謂心為念。心実不動。若能観察知心無念。即得随順入真如門故。
(また次に生滅門より即ち真如門に入ることを顕示す。所謂、五陰を推求するに色と心となり。六塵の境界は畢竟じて無念なり。心に形相なく、十方にこれを求むるに終に不可得なるを以て。人の迷うが故に、東を謂いて西となすも、方は実に転ぜざるが如し。衆生もまた爾り。無明の迷の故に、心を謂いて念となすも、心は実に動ぜず。もし能く観察して心は無念と知れば、即ち随順して真如門に入ることを得るが故に。)

対治邪執者。一切邪執皆依我見。若離於我則無邪執。是我見有二種。云何為二。一者人我見。二者法我見。
(対治邪執とは、一切の邪執は皆、我見に依る。もし我を離るれば則ち邪執なし。この我見に二種あり。云何が二となす。一には人我見、二には法我見なり。)

人我見者。依諸凡夫説有五種。云何為五。一者聞修多羅。説如来法身畢竟寂寞。猶如虚空。以不知為破著故。即謂虚空是如来性。云何対治。明虚空相。是其妄法。体無不実。以対色故有。是可見相。令心生滅。所謂一切境界唯心。妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅。唯一真心無所不遍。此謂如来広大性智究竟之義。非如虚空相故。以一切色法本来是心。実無外色。若無色者。則無虚空之相。
(人我見とは、諸の凡夫に依りて説くに五種あり。云何が五となす。一には修多羅に如来の法身は畢竟寂寞なること猶し虚空の如しと説くを聞きて、著を破さんがためと知らざるを以ての故に、即ち虚空はこれ如来の性なりといえり。云何が対治。虚空の相はこれその妄法にして体無、不実なりと明かす。色に対するを以ての故に有り。これ可見の相、心をして生滅せしむ。一切の色法は本より来たこれ心なるを以て、実に外色なし。もし色なければ、則ち虚空の相なし。所謂、一切の境界は唯心にして、妄に起こるが故に有。もし心の、妄動を離るれば、則ち一切の境界は滅す。唯だ一の真心にして遍ぜざる所なし。これを如来広大性智究竟の義という。虚空の相の如きにはあらざるが故に。)

二者。聞修多羅。説世間諸法畢竟体空。乃至。涅槃真如之法亦畢竟空。本来自空離一切相。以不知為破著故。即謂真如涅槃之性唯是其空。云何対治。明真如法身自体不空。具足無量性功徳故。
(二には、修多羅に、世間の諸法は畢竟体空なり、乃至、涅槃真如の法もまた畢竟空、本より来た自空にして一切の相を離れたりと説くを聞きて、著を破さんがためと知らざるを以ての故に、即ち真如涅槃の性は唯これはそれ空といえり。云何が対治せん。真如法身は自体不空にして無量の性功徳を具足すと明かすが故に。)

三者。聞修多羅。説如来之蔵無有増減。体備一切功徳之法。以不解故。即謂如来之蔵。有色心法自相差別。云何対治。以唯依真如義説故。因生滅染義示現。説差別故。
(三には、修多羅に如来の蔵は増減あることなく、体に一切功徳の法を備うと説くを聞きて、解せざるを以ての故に、即ち如来の蔵は色心の法の自相差別ありと謂う。云何が対治せん。唯だ真如の義に依りて説くを以ての故に、生滅の染の義に因りて示現するを、差別と説くが故に。)

四者。聞修多羅。説一切世間生死染法。皆依如来蔵而有。一切諸法不離真如。以不解故。謂如来蔵自体。具有一切世間生死等法。云何対治。以如来蔵従本已来。唯有過恒沙等諸浄功徳。不離不断不異真如義故。以過恒沙等煩悩染法。唯是妄有性自本無。従無始世来。未曽与如来蔵相応故。若如来蔵体有妄法。而使証会永息妄者。則無有是処。
(四に、修多羅に一切世間の生死の染法は、皆、如来蔵に依りて有り、一切の諸法は真如を離れずと説くを聞きて、解せざるを以ての故に、如来蔵の自体に具に一切世間の生死等の法ありという。云何が対治せん。如来蔵は本より已来た、唯、過恒沙等の諸の浄功徳は不離不断不異の真如の義あるを以ての故に。過恒沙等の煩悩の染法は唯これ妄有、性自から本無なり、無始世より来た、未だ曽て如来蔵と相応せざるを以ての故に。もし如来蔵の体に妄法ありて、証会せしめて永く妄を息めば、則ちこの処あることなし。)

五者。聞修多羅。説依如来蔵故有生死。依如来蔵故得涅槃。以不解故。謂衆生有始。以見始故。復謂如来所得涅槃。有其終尽還作衆生。云何対治。以如来蔵無前際故。無明之相亦無有始。若説三界外更有衆生始起者。即是外道経説。又如来蔵無有後際。諸仏所得涅槃与之相応。則無後際故。
(五に、修多羅に、如来蔵に依るが故に生死あり、如来蔵に依るが故に涅槃を得と説くを聞きて、解せざるを以ての故に、衆生に始ありという。始を見るを以ての故に、また如来所得の涅槃は、その終尽ありて、還りて衆生と作るという。云何が対治せん。如来蔵は前際なきを以ての故に、無明の相もまた始あることなし。もし三界の外に更に衆生ありて始めて起こると説かば、即ちこれ外道経の説なり。また如来蔵は後際あることなく、諸仏所得の涅槃もこれと相応して、則ち後際なきが故に。)

法我見者。依二乗鈍根故。如来但為説人無我。以説不究竟。見有五陰生滅之法。怖畏生死妄取涅槃。云何対治。以五陰法自性不生。則無有滅。本来涅槃故。
(法我見とは、二乗の鈍根に依るが故に、如来はただ人無我と説くがために、説、究竟せざるを以て、五陰生滅の法ありと見て、生死を怖畏して妄に涅槃を取る。云何が対治せん。五陰の法は自性不生なるを以て、則ち滅あることなし。本より来た涅槃の故に。)

復次究竟離妄執者。当知染法浄法皆悉相待。無有自相可説。是故一切法。従本已来非色非心非智非識非有非無。畢竟不可説相。而有言説者。当知如来善巧方便。仮以言説引導衆生。其旨趣者。皆為離念帰於真如。以念一切法。令心生滅不入実智故。
(また次に究竟して妄執を離るれば、当に知るべし、染法・浄法、皆悉く相待して、自相の説くべきあることなし。この故に一切の法は本より已来た色にあらず、心にあらず、智にあらず、識にあらず、有にあらず、無にあらず、畢竟して不可説の相なり。而して言説あるは、当に知るべし、如来の善巧方便にして、仮に言説を以て衆生を引導す。その旨趣は皆、念を離れ真如に帰せんがためなり。一切の法を念ずれば、心をして生滅して実智に入らざらしむるを以ての故に。)

分別発趣道相者。謂一切諸仏所証之道。一切菩薩発心修行趣向義故。略説発心有三種。云何為三。一者信成就発心。二者解行発心。三者証発心。
(分別発趣道相とは、謂く、一切の諸仏所証の道に、一切の菩薩の、発心修行し趣向する義なるが故に。略して発心を説くに三種あり。云何が三となす。一には信成就発心。二には解行発心。三には証発心。)

信成就発心者。依何等人。修何等行。得信成就。堪能発心。所謂依不定聚衆生。有熏習善根力故。信業果報能起十善。厭生死苦。欲求無上菩提。得値諸仏親承供養。修行信心。経一万劫信心成就故。諸仏菩薩教令発心。或以大悲故能自発心。或因正法欲滅。以護法因縁故能自発心。如是信心成就得発心者。入正定聚畢竟不退。名住如来種中正因相応。
(信成就発心とは、何等の人に依り、何等の行を修し、信成就を得て、能く発心するに堪えん。所謂、不定聚の衆生に依る。熏習する善根力あるが故に、業果報を信じて能く十善を起こし、生死の苦を厭い、無上菩提を欲求し、諸仏に値うを得て、親承供養して、信心を修行す。一万劫を経て信心成就するが故に、諸仏菩薩は教えて発心せしめ、或いは大悲を以ての故に能く自ら発心し、或いは正法の滅せんと欲するに因りて、護法の因縁を以ての故に能く自ら発心す。かくの如く信心成就して発心を得る者は、正定聚に入りて畢竟じて退ぞかざるを、如来種の中に住して正因相応すと名づく。)

若有衆生。善根微少。久遠已来煩悩深厚。雖値於仏亦得供養。然起人天種子。或起二乗種子。設有求大乗者。根則不定若進若退。或有供養諸仏。未経一万劫。於中遇縁亦有発心。所謂見仏色相而発其心。或因供養衆僧而発其心。或因二乗之人教令発心。或学他発心。如是等発心。悉皆不定。遇悪因縁。或便退失堕二乗地。
(もし衆生ありて、善根微少にして久遠より已来た煩悩深厚なれば、仏に値いまた供養することを得といえども、然るに人天の種子を起こし、或いは二乗の種子を起こす。設い大乗を求むる者あれども、根は則ち不定にして、もしは進み、もしは退す。或いは諸仏を供養することあるも、未だ一万劫を経ざるに、中に於いて縁に遇いてまた発心することあり。所謂、仏の色相を見てその心を発し、或いは衆僧を供養するに因りてその心を発し、或いは二乗の人の教えに因りて発心せしめ、或いは他を学びて発心す。かくの如き等の発心は、悉く皆、不定なり。悪の因縁に遇わば、或いは便ち退失して二乗地に堕す。)

復次信成就発心者。発何等心。略説有三種。云何為三。一者直心。正念真如法故。二者深心。楽集一切諸善行故。三者大悲心。欲抜一切衆生苦故。
(また次に信成就発心とは、何等の心を発すや。略して説くに三種あり。云何が三となす。一には直心。正しく真如の法を念ずるが故に。二には深心。楽しみて一切の諸の善行を集むるが故に。三には大悲心。一切衆生の苦を抜かんと欲するが故に。)

問曰。上説法界一相仏体無二。何故不唯念真如。復仮求学諸善之行。答曰。譬如大摩尼宝体性明浄。而有鉱穢之垢。若人雖念宝性。不以方便種種磨治。終無得浄。如是衆生真如之法体性空浄。而有無量煩悩染垢。若人雖念真如不以方便種種熏修。亦無得浄。以垢無量無辺遍一切法故。修一切善行以為対治。若人修行一切善法。自然帰順真如法故。
(問いて曰く。上に法界一相、仏体無二なりと説く。何が故ぞ唯だ真如を念ぜずして、また諸善の行を求学することを仮るや。答えて曰く。譬えば大摩尼宝の体性は明浄なるに、鉱穢の垢あり。もし人、宝性を念ずといえども、方便を以て種種に磨治せざれば、終に浄を得ることなきが如し。かくの如く衆生の真如の法も体性は空浄なるに、無量の煩悩の染垢あり。もし人、真如を念ずといえども、方便を以て種種に熏修せざれば、また浄を得ることなし。垢は無量無辺にして一切法に遍ずるを以ての故に、一切の善行を修して以て対治をなす。もし人、一切の善法を修行すれば、自然に真如の法に帰順するが故に。)

略説方便有四種。云何為四。一者行根本方便。謂観一切法自性無生。離於妄見不住生死。観一切法因縁和合業果不失。起於大悲修諸福徳。摂化衆生不住涅槃。以随順法性無住故。
(略して方便を説くに四種あり。云何が四となす。一には行根本方便。謂く一切の法は自性無生と観じ、妄見を離れて生死に住せず。一切の法は因縁和合して業果は失せずと観じ、大悲を起こして諸の福徳を修し、衆生を摂化して涅槃に住せず。法性の無住に随順するを以ての故に。)

二者能止方便。謂慚愧悔過。能止一切悪法不令増長。以随順法性離諸過故。
(二には能止の方便。謂く慚愧悔過して能く一切の悪法を止め増長せしめず。法性の、諸過を離るるに随順するを以ての故に。)

三者発起善根増長方便。謂勤供養礼拝三宝。讃歎随喜勧請諸仏。以愛敬三宝淳厚心故。信得増長。乃能志求無上之道。又因仏法僧力所護故。能消業障善根不退。以随順法性離癡障故。
(三には発起善根増長方便。謂く勤めて三宝を供養し礼拝し、諸仏を讃歎し随喜し勧請す。三宝を愛敬する淳厚の心を以ての故に、信は増長することを得、乃ち能く無上の道を志求す。また仏法僧の力に護らるるに因るが故に、能く業障を消して善根退かず。法性の、癡障を離るるに随順するを以ての故に。)

四者大願平等方便。所謂発願尽於未来。化度一切衆生使無有余。皆令究竟無余涅槃。以随順法性無断絶故。法性広大遍一切衆生。平等無二。不念彼此。究竟寂滅故。
(四には大願平等方便。所謂、発願して未来を尽くし、一切衆生を化度するに余あることなからしめて、皆、究竟無余涅槃せしむ。法性の断絶なきに随順するを以ての故に。法性広大にして一切の衆生に遍し、平等無二なり。彼此を念ぜず、究竟寂滅の故に。)

菩薩発是心故。則得少分見於法身。以見法身故。随其願力能現八種利益衆生。所謂従兜率天退。入胎住胎出胎。出家成道転法輪。入於涅槃。然是菩薩未名法身。以其過去無量世来。有漏之業未能決断。随其所生。与微苦相応。亦非業繋。以有大願自在力故。如修多羅中。或説有退堕悪趣者。非其実退。但為初学菩薩未入正位。而懈怠者恐怖。令彼勇猛故。又是菩薩。一発心後遠離怯弱。畢竟不畏堕二乗地。若聞無量無辺阿僧祇劫。勤苦難行乃得涅槃。亦不怯弱。以信知一切法。従本已来自涅槃故。
(菩薩はこの心を発する故に、則ち少分に法身を見ることを得。法身を見るを以ての故に、その願力に随りて能く八種を現じて衆生を利益す。所謂、兜率天より退し、入胎、住胎、出胎、出家、成道、転法輪、涅槃に入る。然るにこの菩薩は未だ法身と名づけず。その過去無量世より来た、有漏の業未だ能く決断せざるを以て、その所生に随いて微苦と相応す。また業繋にあらず。大願自在力あるを以ての故に。修多羅中。或いは悪趣に退堕する者ありと説くが如きは、その実退にあらず。ただ初学の菩薩の、未だ正位に入らず、懈怠する者に恐怖せしめ、彼をして勇猛ならしめんための故に。またこの菩薩は一たび発心して後、怯弱を遠離して、畢竟じて二乗地に堕つることを畏れず。もし無量無辺阿僧祇劫に勤苦難行して乃ち涅槃を得と聞くとも、また怯弱ならず。一切の法は本従り已来た自ら涅槃なりと信知するを以ての故に。)

解行発心者。当知転勝。以是菩薩。従初正信已来。於第一阿僧祇劫将欲満故。於真如法中。深解現前所修離相。以知法性体無慳貪故。随順修行檀波羅蜜。以知法性無染離五欲過故。随順修行尸羅波羅蜜。以知法性無苦離瞋悩故。随順修行[セン08]提波羅蜜。以知法性無身心相離懈怠故。随順修行毘梨耶波羅蜜。以知法性常定体無乱故。随順修行禅波羅蜜。以知法性体明離無明故。随順修行般若波羅蜜。
(解行発心とは、当に知るべし、転た勝なり。この菩薩は、初の正信より已来た、第一阿僧祇劫に於いて将に満ぜんと欲するを以ての故に。真如の法の中に於いて、深解現前して、所修は相を離る。法性の体は慳貪なきを知るを以ての故に、随順して檀波羅蜜を修行す。法性は無染にして五欲の過を離れたると知るを以ての故に、随順して尸羅波羅蜜を修行す。法性には苦なく瞋悩を離るるを知るを以ての故に、随順して[セン08]提波羅蜜を修行す。法性は身心の相なく懈怠を離るるを知るを以ての故に、随順して毘梨耶波羅蜜を修行す。法性は常定にして、体は乱なきを知るを以ての故に、随順して禅波羅蜜を修行す。法性は体明にして無明を離るるを知るを以ての故に、随順して般若波羅蜜を修行す。)

証発心者。従浄心地。乃至菩薩究竟地。証何境界。所謂真如。以依転識説為境界。而此証者無有境界。唯真如智名為法身。
(証発心とは、浄心地より、乃至、菩薩究竟地に何の境界を証するや。所謂、真如なり。転識に依るを以て説きて境界となす。而してこの証とは境界あることなし。唯だ真如智を名づけて法身となす。)

是菩薩。於一念頃能至十方無余世界。供養諸仏請転法輪。唯為開導利益衆生。不依文字。或示超地速成正覚。以為怯弱衆生故。或説我於無量阿僧祇劫当成仏道。以為懈慢衆生故。能示如是無数方便不可思議。而実菩薩種性根等。発心則等。所証亦等。無有超過之法。以一切菩薩。皆経三阿僧祇劫故。但随衆生世界不同。所見所聞根欲性異故。示所行亦有差別。
(この菩薩、一念の頃に於いて能く十方無余の世界に至り、諸仏を供養し転法輪を請す。唯だ衆生を開導し利益せんがために、文字に依らず。或いは地を超えて速かに正覚を成ずと示す。怯弱の衆生のためなるを以ての故に。或いは我、無量阿僧祇劫に於いて当に仏道を成ずべしと説く。懈慢の衆生のためなるを以ての故に。能くかくの如き無数の方便を示す。不可思議なり。而して実に菩薩の種性根等しく、発心則ち等しく、所証また等しくして、超過の法あることなし。一切の菩薩は皆、三阿僧祇劫を経るを以ての故に。ただ衆生世界は同じからず、所見、所聞、根、欲、性の異なるに随うが故に、所行を示すことまた差別あり。)

又是菩薩発心相者。有三種心微細之相。云何為三。一者真心。無分別故。二者方便心。自然遍行利益衆生故。三者業識心。微細起滅故。又是菩薩功徳成満。於色究竟処。示一切世間最高大身。謂以一念相応慧。無明頓尽名一切種智。自然而有不思議業。能現十方利益衆生。
(またこの菩薩の発心の相とは、三種の心の微細の相あり。云何が三となす。一には真心。無分別の故に。二には方便心。自然に遍行して衆生を利益するが故に。三には業識心。微細に起滅するが故に。またこの菩薩は、功徳成満して、色究竟処に於いて、一切世間の最高大の身を示す。謂く、一念相応の慧を以て、無明頓に尽くすを一切種智と名づく。自然に不思議業ありて、能く十方に現じて衆生を利益す。)

問曰。虚空無辺故世界無辺。世界無辺故衆生無辺。衆生無辺故心行差別亦復無辺。如是境界不可分斉。難知難解。若無明断無有心想。云何能了名一切種智。答曰。一切境界本来一心。離於想念。以衆生妄見境界故。心有分斉。以妄起想念不称法性故。不能決了。諸仏如来。離於見相無所不遍。心真実故。即是諸法之性。自体顕照一切妄法。有大智用無量方便。随諸衆生所応得解。皆能開示種種法義。是故得名一切種智。
(問いて曰く。虚空無辺なるが故に世界無辺なり。世界無辺なるが故に衆生無辺なり。衆生無辺なるが故に心行の差別もまたまた無辺なり。かくの如きの境界は分斉すべからず。知り難く、解し難し。もし無明断ぜば心想あることなし。云何して能く了するを一切種智と名づけん。答えて曰く。一切の境界は本来一心にして想念を離る。衆生は妄に境界を見るを以ての故に、心に分斉あり。妄に想念を起こして法性に称わざるを以ての故に、決了すること能わず。諸仏如来は見相を離れて遍ぜざる所なし。心真実の故に、即ちこれ諸法の性なり。自体、一切の妄法を顕照す。大智用、無量の方便ありて、諸の衆生の応に得解すべき所に随いて、皆能く種種の法義を開示す。この故に一切種智と名づくることを得。)

又問曰。若諸仏有自然業。能現一切処利益衆生者。一切衆生若見其身。若覩神変。若聞其説無不得利。云何世間多不能見。答曰。諸仏如来法身平等遍一切処。無有作意故説自然。但依衆生心現。衆生心者猶如於鏡。鏡若有垢色像不現。如是衆生心。若有垢法身不現故。
(また問いて曰く。もし諸仏に自然業ありて、能く一切処に現じて衆生を利益せば、一切衆生は、もしはその身を見、もしは神変を覩、もしはその説を聞きて、利を得ざることなし。云何ぞ世間に多く見ること能わざるや。答えて曰く。諸仏如来の法身は平等に一切処に遍じて作意あることなきが故に自然と説く。ただ衆生の心に依りて現ず。衆生心は猶し鏡の如し。鏡もし垢あらば色像は現ぜず。かくの如く衆生の心にもし垢あらば、法身は現ぜざるが故に。)

已説解釈分。次説修行信心分。是中依未入正定聚衆生故。説修行信心。何等信心。云何修行。
(已に解釈分を説く。次に修行信心分を説かん。この中に未だ正定聚に入らざる衆生に依るが故に、修行信心を説く。何等の信心、云何が修行する。)

略説信心有四種。云何為四。一者信根本。所謂楽念真如法故。二者信仏有無量功徳。常念親近供養恭敬発起善根。願求一切智故。三者信法有大利益。常念修行諸波羅蜜故。四者信僧能正修行自利利他。常楽親近諸菩薩衆。求学如実行故。
(略して信心を説くに四種あり。云何が四となす。一には根本を信ず。所謂、真如の法を楽念するが故に。二には仏に無量の功徳ありと信じて、常に念じて親近し供養し恭敬して善根を発起し、一切智を願求するが故。三には法に大利益ありと信じて、常に念じて諸波羅蜜を修行するが故に。四には僧は能く正しく自利利他を修行すと信じて、常に楽しみて諸菩薩衆に親近して如実の行を求学するが故に。)

修行有五門。能成此信。云何為五。一者施門。二者戒門。三者忍門。四者進門。五者止観門。
(修行に五門あり。能くこの信を成ず。云何が五となす。一には施門。二には戒門。三には忍門。四には進門。五には止観門。)

云何修行施門。若見一切来求索者。所有財物随力施与。以自捨慳貪。令彼歓喜。若見厄難恐怖危逼。随己堪任施与無畏。若有衆生来求法者。随己能解方便為説。不応貪求名利恭敬。唯念自利利他。回向菩提故。
(云何が施門を修行する。もし一切の来りて求索する者を見れば、所有る財物は力に随いて施与す。自から慳貪を捨するを以て、彼をして歓喜せしむ。もし厄難恐怖危逼を見て、己が堪任するに随いて無畏を施与す。もし衆生の来りて法を求むる者あらば、己が能く解するに随いて方便して為に説きて、応に名利恭敬を貪求すべからず。唯だ自利利他を念じ菩提に回向するが故に。)

云何修行戒門。所謂不殺不盜不婬不両舌不悪口不妄言不綺語。遠離貪嫉欺詐諂曲瞋恚邪見。若出家者為折伏煩悩故。亦応遠離[ケ02]鬧常処寂静。修習少欲知足頭陀等行。乃至。小罪心生怖畏慚愧改悔。不得軽於如来所制禁戒。当護譏嫌。不令衆生妄起過罪故。
(云何が戒門を修行する。所謂、不殺・不盜・不婬・不両舌・不悪口・不妄言・不綺語。貪嫉・欺詐・諂曲・瞋恚・邪見を遠離す。もし出家者は煩悩を折伏せんがための故に、また応に[ケ02]鬧を遠離し、常に寂静に処して少欲知足・頭陀等の行を修習し、乃至、小罪にも心に怖畏を生じて、慚愧・改悔して、如来所制の禁戒を軽んずることを得ざるべし。当に譏嫌を護り、衆生をして妄に過罪を起こさしめざるべきが故に。)

云何修行忍門。所謂応忍他人之悩心不懐報。亦当忍於利衰毀誉称譏苦楽等法故。
(云何が忍門を修行する。所謂、応に他人の悩を忍びて心に報を懐せざるべし。また当に利衰・毀誉・称譏・苦楽等の法を忍ぶべきが故に。)

云何修行進門。所謂於諸善事心不懈退。立志堅強遠離怯弱。当念過去久遠已来。虚受一切身心大苦無有利益。是故応勤修諸功徳。自利利他速離衆苦。
(云何が進門を修行する。所謂、諸の善事に於て心に懈退せず、志を立つること堅強にして怯弱を遠離し、当に過去久遠已り来た、虚しく一切身心の大苦を受けて利益あることなきことを念ず。この故に応に勤めて諸の功徳を修して、自利利他して速かに衆苦を離るべし。)

復次若人雖修行信心。以従先世来多有重罪悪業障故。為邪魔諸鬼之所悩乱。或為世間事務種種牽纒。或為病苦所悩。有如是等衆多障礙。是故応当勇猛精勤。昼夜六時礼拝諸仏。誠心懺悔勧請随喜回向菩提。常不休廃得免諸障。善根増長故。
(また次に、もし人、信心を修行すといえども、先世より来た多く重罪悪業障あるを以ての故に、邪魔諸鬼のために悩乱せらる。或いは世間事務のために種種に牽纒せらる。或いは病苦のために悩まさる。かくの如き等の衆多の障礙あり。この故に応当に勇猛精勤して、昼夜六時に諸仏を礼拝し、誠心に懺悔し勧請し随喜して菩提に回向すべし。常に休廃せず諸障を免れることを得ん。善根増長するが故に。)

云何修行止観門。所言止者。謂止一切境界相。随順奢摩他観義故。所言観者。謂分別因縁生滅相。随順毘鉢舍那観義故。云何随順。以此二義漸漸修習不相捨離。双現前故。
(云何が止観門を修行する。言う所の止とは、謂く、一切の境界の相を止めて、奢摩他観に随順する義の故に。言う所の観とは、謂く、因縁生滅の相を分別して毘鉢舍那観に随順する義の故に。云何が随順する。この二義は漸漸に修習して相捨離せざるを以て、双びて現前するが故に。)

若修止者。住於静処端坐正意。不依気息。不依形色。不依於空。不依地水火風。乃至。不依見聞覚知。一切諸想随念皆除亦遣除想。以一切法本来無想。念念不生。念念不滅。亦常不得随心外念境界。後以心除心。心若馳散。即当摂来住於正念。是正念者当知唯心無外境界。即復此心亦無自相。念念不可得。若従坐起。去来進止有所施作。於一切時。常念方便随順観察。久習淳熟其心得住。以心住故。漸漸猛利随順得入真如三昧。深伏煩悩信心増長。速成不退。唯除疑惑不信誹謗重罪業障我慢懈怠。如是等人所不能入。
(もし止を修する者は、静処に住して、端坐して意を正す。気息に依らず、形色に依らず、空に依らず、地水火風に依らず、乃至、見聞覚知に依らず。一切の諸想は念に随いて皆除き、また除想を遣る。一切の法は本来無想を以て、念念に生ぜず、念念に滅せず。また常に心外に随いて境界を念じ、後に心を以て心を除くことを得ず。心もし馳散せば、即ち当に摂し来りて正念に住すべし。この正念とは当に知るべし、唯心にして外の境界なし。即ちまたこの心は、また自相なく、念念不可得なり。もし坐より起きて、去来進止に施作する所あらば、一切の時に於いて常に方便を念じて、随順観察すべし。久習淳熟すれば、その心は住することを得。心住するを以ての故に、漸漸に猛利にして真如三昧に随順し得入し、深く煩悩を伏して信心増長して、速かに不退を成ず。ただ疑惑・不信・誹謗・重罪業障・我慢・懈怠を除く。かくの如き等の人は入ること能わざる所なり。)

復次依是三昧故。則知法界一相。謂一切諸仏法身与衆生身平等無二。即名一行三昧。当知真如是三昧根本。若人修行漸漸能生無量三昧。
(また次にこの三昧に依るが故に、則ち法界一相なりと知る。謂く一切の諸仏の法身と衆生身と平等無二なるを、即ち一行三昧と名づく。当に知るべし真如はこれ三昧の根本なり。もし人、修行する漸漸に能く無量三昧を生ず。)

或有衆生無善根力。則為諸魔外道鬼神之所惑乱。若於坐中現形恐怖。或現端正男女等相。当念唯心。境界則滅。終不為悩。或現天像菩薩像。亦作如来像相好具足。若説陀羅尼。若説布施持戒忍辱精進禅定智慧。或説平等空無相無願無怨無親無因無果畢竟空寂。是真涅槃。或令人知宿命過去之事。亦知未来之事。得他心智弁才無礙。能令衆生貪著世間名利之事。又令使人数瞋数喜性無常準。或多慈愛多睡多宿多病其心懈怠。或率起精進。後便休廃生於不信多疑多慮。或捨本勝行更修雑業。若著世事種種牽纒。亦能使人得諸三昧少分相似。皆是外道所得。非真三昧。或復令人若一日若二日若三日乃至七日。住於定中。得自然香美飲食。身心適悦不飢不渇。使人愛著。或亦令人食無分斉。乍多乍少顏色変異。
以是義故。行者常応智慧観察。勿令此心堕於邪網。当勤正念不取不著。則能遠離是諸業障。
(或いは衆生ありて善根力なく、則ち諸魔外道鬼神のために惑乱せらる。もしは坐中に於いて形を現じて恐怖し、或いは端正の男女等の相を現ず。当に唯心を念ずべし。境界則ち滅して、終に悩をなさず。或いは天像菩薩像を現じ、または如来の像を作りて相好具足し、もしは陀羅尼を説き、もしは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を説き、或いは平等・空・無相・無願・無怨・無親・無因・無果・畢竟空寂なる、これ真の涅槃なりと説き、或いは人をして宿命過去の事を知り、また未来の事を知り、他心智弁才無礙を得しむ。能く衆生をして世間の名利の事に貪著せしむ。また人をして数ば瞋り数ば喜びて性に常準なく、或いは多く慈愛・多睡・多宿・多病にしてその心懈怠ならしむ。或いは率〈にわか〉に精進を起こし、後に便ち休廃して、不信を生じて多疑多慮。或いは本の勝行を捨て更に雑業を修す。もしは世事に著し種種に牽纒す。また能く人をして諸の三昧の少分の相似を得しむ。皆これ外道の所得にして真の三昧にあらず。或いはまた人をして、もしは一日、もしは二日、もしは三日、乃至、七日、定中に住して、自然の香美の飲食を得て、身心適悦して不飢不渇ならしむ。人をして愛著せしめ、或いはまた人をして食に分斉なく、乍に多く、乍に少なくして、顏色変異せしむ。この義を以ての故に、行者、常に応に智慧観察して、この心をして邪網に堕せしむることなかれ。当に勤めて正念にして不取不著ならば、則ち能くこの諸の業障を遠離す。)

応知。外道所有三昧。皆不離見愛我慢之心。貪著世間名利恭敬故。真如三昧者。不住見相。不住得相。乃至。出定亦無懈慢。所有煩悩漸漸微薄。若諸凡夫不習此三昧法。得入如来種性。無有是処。以修世間諸禅三昧。多起味著。依於我見繋属二界。与外道共。若離善知識所護。則起外道見故。
(応に知るべし。外道所有の三昧は、皆、見愛我慢の心を離れず。世間の名利恭敬を貪著するが故に。真如三昧とは、見相に住さず、得相に住さず。乃至。定を出でて、また懈慢なし。所有の煩悩は漸漸に微薄なり。もし諸の凡夫、この三昧の法を習せずして、如来の種性に入ることを得ること、この処りあることなし。世間の諸禅三昧を修して、多く味著を起こし、我見に依りて二界に繋属するを以て、外道と共にす。もし善知識の所護を離るれば、則ち外道の見を起こすが故に。)

復次精勤専心修学此三昧者。現世当得十種利益。云何為十。一者常為十方諸仏菩薩之所護念。二者不為諸魔悪鬼所能恐怖。三者不為九十五種外道鬼神之所惑乱。四者遠離誹謗甚深之法。重罪業障漸漸微薄。五者滅一切疑諸悪覚観。六者於諸如来境界信得増長。七者遠離憂悔。於生死中勇猛不怯。八者其心柔和捨於[キョウ02]慢。不為他人所悩。九者雖未得定。於一切時一切境界処。則能減損煩悩不楽世間。十者若得三昧。不為外縁一切音声之所驚動。
(また次に精勤して専心にこの三昧を修学する者は、現世に当に十種の利益を得べし。云何が十となす。一には常に十方の諸仏菩薩のために護念せらる。二には諸魔悪鬼のために能く恐怖せられず。三には九十五種の外道鬼神のために惑乱せられず。四には甚深の法を誹謗することを遠離し、重罪業障は漸漸に微薄なり。五には一切の疑と諸の悪覚観を滅す。六には諸の如来の境界に於いて、信は増長することを得。七には憂悔を遠離して、生死の中に於いて勇猛不怯なり。八にはその心柔和にして[キョウ02]慢を捨てて、他人のために悩まされず。九には未だ定を得ずといえども、一切の時、一切の境界の処に於いて、則ち能く煩悩を減損して、世間を楽しまず。十には、もし三昧を得れば、外縁一切音声のために驚動せられず。)

復次若人唯修於止。則心沈没。或起懈怠。不楽衆善。遠離大悲。是故修観。
(また次に、もし人ただ止を修すれば、則ち心沈没し、或いは懈怠を起こして衆善を楽しまず、大悲を遠離す。この故に観を修す。)

修習観者。当観一切世間有為之法。無得久停。須臾変壊。一切心行念念生滅。以是故苦。応観過去所念諸法。恍愡如夢。応観現在所念諸法。猶如電光。応観未来所念諸法。猶如於雲[クツ01]爾而起。応観世間一切有身。悉皆不浄。種種穢汚無一可楽。
(観を修習する者は、当に一切世間有為の法は、久しく停ることなく、須臾に変壊し、一切の心行は念念に生滅して、これを以ての故に苦なりと観ずべし。応に過去所念の諸法は恍愡として夢の如しと観ずべし。応に現在の所念の諸法は、猶し電光の如しと観ずべし。応に未来所念の諸法は猶し雲の[クツ01]爾として起るが如しと観ずべし。応に世間一切の有身は、悉く皆不浄にして、種種の穢汚は一として楽しむべきことなしと観ずべし。)

如是当念。一切衆生従無始時来。皆因無明所熏習故。令心生滅。已受一切身心大苦。現在即有無量逼迫。未来所苦亦無分斉。難捨難離而不覚知。衆生如是甚為可愍。
(かくの如く当に念ずべし。一切衆生は無始の時より来た、皆、無明に熏習せらるに因るが故に、心をして生滅せしめ、已に一切の身心の大苦を受け、現在に即ち無量の逼迫あり。未来の所苦もまた分斉なし。捨し難く離れ難くして、而して覚知せず。衆生はかくの如く甚だ愍れむべしとなす。)

作是思惟。即応勇猛立大誓願。願令我心離分別故。遍於十方。修行一切諸善功徳。尽其未来。以無量方便。救抜一切苦悩衆生。令得涅槃第一義楽。以起如是願故。於一切時一切処。所有衆善随已堪能。不捨修学。心無懈怠。唯除坐時専念於止。若余一切。悉当観察応作不応作。
(この思惟を作し、即ち応に勇猛に大誓願を立つべし。願くは我が心をして分別を離れしむるが故に十方に遍じて一切の諸善功徳を修行し、その未来を尽くして、無量の方便を以て、一切の苦悩の衆生を救抜して、涅槃第一義の楽を得しめん。かくの如き願を起こすを以ての故に、一切時、一切処に於いて、所有の衆善、已に堪能するに随いて、修学を捨てず、心に懈怠なし。ただ坐する時に止を専念するを除く。もし余の一切は悉く当に応作と不応作とを観察すべし。)

若行。若住。若坐。若臥。若起。皆応止観倶行。所謂雖念諸法自性不生。而復即念因縁和合。善悪之業苦楽等報不失不壊。雖念因縁善悪業報。而亦即念性不可得。若修止者。対治凡夫住著世間。能捨二乗怯弱之見。若修観者。対治二乗不起大悲狹劣心過。遠離凡夫不修善根。以是義故。是止観門共相助成不相捨離。若止観不具。則無能入菩提之道。
(もしくは行、もしくは住、もしくは坐、もしくは臥、もしくは起、皆、応に止観倶行すべし。所謂、諸法の自性不生を念ずといえども、而してまた即ち因縁和合の善悪の業苦、楽等の報は失せず壊せずと念ず。因縁善悪の業報を念ずといえども、而してまた即ち性は不可得なりと念ず。もし止を修せば、凡夫の世間に住著するを対治し、能く二乗の怯弱の見を捨す。もし観を修すれば、二乗の、大悲を起こさざる狹劣の心の過を対治し、凡夫の善根を修せざるを遠離す。この義を以ての故にこの止・観門は共に相い助成して相い捨離せず。もし止・観具せざれば、則ち能く菩提の道に入ることなし。)

復次衆生。初学是法。欲求正信。其心怯弱。以住於此娑婆世界。自畏不能常値諸仏親承供養。懼謂信心難可成就。意欲退者。当知。如来有勝方便。摂護信心。謂以専意念仏因縁。随願得生他方仏土。常見於仏永離悪道。如修多羅説。若人専念西方極楽世界阿弥陀仏。所修善根回向。願求生彼世界。即得往生。常見仏故。終無有退。若観彼仏真如法身。常勤修習畢竟得生住正定故。
(また次に衆生、初めてこの法を学び、正信を欲求するに、その心怯弱なり。この娑婆世界に住するを以て、自ら常に諸仏に値いて親承し供養すること能わざることを畏れ、懼れて信心は成就すべきこと難しといいて、意、退せんと欲する者は、当に知るべし。如来は勝方便あり、信心を摂護す。謂く、意を専にし仏を念ずる因縁を以て、願に随いて他方の仏土に生ずることを得て、常に仏を見て永く悪道を離る。修多羅に説くが如し。もし人、専ら西方極楽世界の阿弥陀仏を念じて、所修の善根回向して、彼の世界に生ぜんと願求すれば、即ち往生することを得。常に仏を見るが故に、終に退あることなし。もし彼の仏の真如法身を観じて、常に勤めて修習すれば、畢竟じて生ずることを得て正定に住するが故に。)

已説修行信心分。次説勧修利益分。
(已に修行信心分を説く。次に勧修利益分を説かん。)

如是摩訶衍諸仏秘蔵。我已総説。若有衆生。欲於如来甚深境界。得生正信。遠離誹謗。入大乗道。当持此論。思量修習究竟。能至無上之道。若人聞是法已。不生怯弱。当知。此人定紹仏種。必為諸仏之所授記。仮使有人。能化三千大千世界満中衆生。令行十善。不如。有人於一食頃正思此法。過前功徳不可為喩。復次。若人受持此論観察修行。若一日一夜。所有功徳無量無辺。不可得説。仮令十方一切諸仏。各於無量無辺阿僧祇劫。歎其功徳。亦不能尽。何以故。謂法性功徳無有尽故。此人功徳亦復如是無有辺際。
(かくの如き摩訶衍は諸仏の秘蔵、我已に総じて説く。もし衆生ありて、如来の甚深の境界に於いて、正信を生ずることを得て、誹謗を遠離して、大乗の道に入らんと欲せば、当にこの論を持して、思量し修習し究竟して、能く無上の道に至る。もし人、この法を聞き已りて怯弱を生ぜざれば、当に知るべし、この人は定んで仏種を紹〈つ〉ぎ、必ず諸仏のために授記せらる。たとい人ありて、能く三千大千世界の中に満てる衆生を化して、十善を行ぜしめんは、如かじ、人ありて一食の頃に於いて正しくこの法を思わんに、前の功徳に過ること、喩となすべからず。また次に、もし人、この論を受持して観察し修行し、もしは一日一夜せん。所有の功徳無量無辺にして、説くことを得べからず。たとい十方一切の諸仏、おのおの無量無辺阿僧祇劫に於いて、その功徳を歎ずるも、また尽くすこと能わず。何を以ての故に。謂く、法性の功徳は尽くることあることなきが故に、この人の功徳もまたまたかくの如く辺際あることなし。)

其有衆生。於此論中毀謗不信。所獲罪報。経無量劫受大苦悩。是故衆生。但応仰信。不応毀謗。以深自害亦害他人。断絶一切三宝之種。以一切如来。皆依此法得涅槃故。一切菩薩。因之修行得入仏智故。当知。過去菩薩。已依此法得成浄信。現在菩薩。今依此法得成浄信。未来菩薩。当依此法得成浄信。是故衆生応勤修学。
(これ衆生ありて、この論の中に於いて毀謗して信ぜざれば、獲る所の罪報は、無量劫を経て大苦悩を受く。この故に衆生は、ただ応に仰ぎて信すべし。応に毀謗すべからず。深く自害し、また他人を害して、一切三宝の種を断絶するを以て。一切の如来は皆、この法に依りて涅槃を得るが故に、一切の菩薩は、これに因りて修行して仏智に入ることを得るを以ての故に。当に知るべし。過去の菩薩は已にこの法得に依りて浄信を成ずることを得。現在の菩薩は今、この法に依りて浄信を成ずることを得。未来の菩薩は当にこの法に依りて浄信を成ずることを得べし。この故に衆生は応に勤めて修学すべし。)

諸仏甚深広大義。我今随順総持説。回此功徳如法性。普利一切衆生界。
(諸仏の甚深広大の義、我今随順して総持して説く。この功徳の如法性を回して、普く一切衆生界を利せん。)

底本『大乗起信論義記』前川茂右衛門・中野宗左右衛門・井上忠兵衛蔵版

 

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